無想会とは



無想会の理念

 沖縄空手道・無想会は、会長・最高師範を務める新垣清によって1980年に米国・ユタ州で創設された、沖縄空手を修行する者たちの国際的な団体です。


 無想会の名の由来は「無念無想」ということであり、かつ新垣師範の「無を想う者、世に有を為す」という言葉からも取ったものでもあります。


 無想会のシンボルマーク(本サイト右上参照)は、沖縄県が琉球王国と呼ばれた時代の尚王家の紋章であり、王国の旗でもあった三つ巴の印の中に、空手のシンボルである正拳を描いてあります。

 しかし琉球王国の国王であった尚家の印は巴が左回りゆえに「左御紋」と称されましたが、無想会のシンボルでは尚家と琉球王国への敬意を示すために右回りとなっています。

 さらにこの右回りの理由の一つには、沖縄で誕生して世界へ羽ばたいた空手が世界の平和・繁栄に貢献して、かつその役割が最終的には沖縄への貢献となって戻っていくという願いが込められています。


会長・最高師範 新垣 清の生い立ち

 会長・新垣清最高師範は空手発祥の地である沖縄県の那覇市で、医学博士で外科病院を開業していた新垣清榮・芳子夫婦の長男として、1954年に生まれました。


 那覇市の神原小学校に入学して六年生の時に児童会長を務め、1967年の1月に財団法人全日本交通安全協会から学校が表彰された際には、上京し学校代表として受賞しました。


 神原中学校に入学してからは当時は沖縄においても稀な中学空手部創設に関与して、後に沖縄県立那覇高校(第26期、S48年卒)へ進学しました。その後に、米国のグレースランド大学で学び中途退学しています。


喜屋武 眞榮 先生

 新垣師範は、幼少の頃からの空手への興味と憧れがありました。それは母方の親族に松林流九段であり、参議院議員をも務められた喜屋武眞榮(きゃん しんえい)先生がいらしたからです。喜屋武眞榮先生は、当時は沖縄古武道の釵を使わせたら世界一とも称された人物で、また松林流創始者であった長嶺将真師範の高弟として、その創世期にかけて多大な貢献をなさいました。当時、米軍政治下にあった沖縄を日本本土に返還させる「祖国復帰」運動の先頭に立った方でもありました。復帰後に、参議院議員に選出されています。


 しかし公私ともに多忙な喜屋武眞榮先生ゆえに、新垣師範の少年期には手取り足取りの指導を受けることは不可能でした。しかし長じて喜屋武先生は参議院議員として国政に参加した後も、若い新垣師範を東京の議員宿舎へ招いて深夜まで有意義な会話をしてくださいました。また議員会館への招待、あるいは参議院本会議での傍聴への招待してくださいました。その経験は、現在の無想会の「社会に貢献する人材を育成する」という理念で空手を修行・指導する上で、マザー・テレサ女史の存在とともに非常に大きな影響を与えています。


 現在、喜屋武眞榮先生の創作された釵の形は「喜屋武の釵」として、世界中の多くの沖縄古武道修行者によって継承されています。さらに無想会に伝わる棒の形である、「白太郎(白樽)の棍」は喜屋武先生が伝承されたものです。その他にも新垣師範が小学校高学年の時には、後に「渡山流」の二代目会長になられる金城久祐先生が、二年に渡って理科の担任で居られ後年に「渡山流」の多大な資料を送っていただいたなどと、周りにはいわゆる「武士」が大勢居られる環境でした。


田場 典永 先生

 中学校においては赤嶺君を主将とした空手部創設の際に顧問として非常にお世話になった、首里の隠れ武士で長嶺将真師範の初期の弟子であった田場典永(たば てんえい)先生などから、ナイファンチを基礎として首里手の形を徹底して指導を受けました。


 この中学の空手部には非常に短い時期に、湖城流の宗家に連なる者が来ていました。新垣師範は今まで知っていた空手とは、全くと言ってよいほどに異なる、空手の存在を知ることにもなります。その後に新垣師範は那覇高校に入学し、長嶺将真先生の道場の門をくぐります。


 当時、沖縄空手界は各流会派が組織化する途上であり、流会派の別という考えがあまり存在せず個人への伝授が主流で、空手を本格的に学ぶには誰からどの形を学んだのかが重要視されていました。


 その形も多くを学ぶのでは無く、数少ない形を徹底して習得するという方法でした。


 組手は極一部の大会で行なわれる以外には、試合ルールなどは存在せず、基本的には素手対素手であるならば何をやっても良い(勿論程度はありますが)、ということでした。


 このように空手を社会的に認知させるために、流会派の整合という動きが上層部では行なわれてはいても、在野の間には「一人一手」と称してもよいものが、多く残っていた時代です。


 形にしても、何処そこの、誰某の形という考えがまだありました。


 同じ師匠から学んだはずの形にしても、個々の創意工夫が導入されたために微妙に理念、解釈が違うのです。さらに同じ師匠が個々の弟子に同じ名称の形でも、違う様式を指導している場合もあったのです。そのために同じ形でも一人の人間だけでは無く、他の人間のそれと比較検討しなければ、形を武術的に理解するのは不可能に近いのです。


 そもそも、沖縄における首里手の流派の成り立ち自体が、首里手の異なる師や形を学んだ者たちが社会的な認知を得るためや、修行場所になる道場を確保するために、最年長である者、社会的地位のある者、あるいは経済的に余裕のある者を頭として、流派を発足させたという経緯があります。


 そのために、各自が持ち寄った形を統合して、流派の形としたという面もあるのです。そして流派を組織として整合させるために、形の動作を統一したり、ある形を摂取したり他の形を排除してもいたのです。そして組織が確立したあかつきには、この設立初期の人間たちの中には、道場にとどまらず野に下っていった者も多くいました。あるいは流派の設立に関与せず、己だけで終わった人間も多数います。


 これらの武術家の多くは、組織に属していないために、練習場所の確保や社会的な認知などとは、ほど遠い位置にいます。


 その反面、純粋に武術としての空手、あるいは「手」を追求できる立場にいます。そのために形の「この部分は**先生が変革したが、元はこのような動作であった」、または「この立ち方は、首里手本来には無く、後に加わったものだ」などと、武術としての空手の本来の姿を学べることになるのです。空手が体系化する以前の、「昔手(ムカシンディ)」の片鱗を残しているのです。


 これらの「一人一手」とは、本人が実践に使えればそれで良いということであって、実践に使えなければ無益でもあります。これは闘う術(スベ)の武術としては、非常に理に適っています。しかしその反面、空手という武術を体系立てて理論を習得し、効率的に業・技を習得する。あるいは他へ伝授するという面においては、非常に不備でもありました。


 そのために、新垣師範は他の多くの空手界の実践者、あるいは社会の表には出ない所謂「隠れ武士」と呼ばれる人々の元へ足繁に通っては、形や組手の方法を模索しました。


 その中でも「武士・松村」こと、松村宗昆の直系の空手を伝える祖堅方範(そけん・ほうはん)師が、新垣師範が後年の再修業において、最大の影響を与えているとしても過言ではありません。


 しかし新垣師範自身が後年回想したように、この時代の自らの修行において、形は習ってはいても、武術としての「手」の本来の意味を理解していたかは、おおいに疑問なのです。


マザー・テレサ 女史

 無想会空手を創設するにあたって、空手の修行と同等までの影響を新垣師範に与えたのが、インドのカルカッタでカトリックの修道女として「Missionaries of Charity(神の愛の宣教者会)」という団体を率いて慈善事業に邁進し、ノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサ女史の元でボランティアとして、カーリー・ガートにあった「Home for the Dying(死にいく人の家)」で、多くの死にいく人々を看取った経験です。


 人を生かすという医業を生業とする家に産まれて、究極的には人を倒すということを目的とする空手の修行・教授する。という、矛盾に直面しなければならなかった新垣師範にとっては、「生と死」の問題は避けて通ることは出来なかったのです。この問題への苦悩は、新垣師範の米国の大学での勉学中における、日本での友人の死ということで、さらに深まりました。


 そしてこのカーリー・ガートで、死にいく人々が示してくれた生命の尊さは、新垣師範の無想会での指導に計り知れないほどの大きな影響を与えています。


 この世において富む者も、あるいは貧しい者も、いずれは朽ちて死んでいきます。


 しかし新垣師範が看取ったどのような貧しい者も、あるいは苦しんでいた者さえも、その死の瞬間のみだけは平安でした。キリスト教でいう主に召されるという言葉そのものに、この世を去っていきました。そして人は、このこと切れる直前に訪れる平安さを想えば、どのような試練にでも耐えていけます。人はこの耐えていける勇気を、何者からか与えられているのです。


 では、われわれ生きている人間が己に問わなければならないのは、死への恐怖の克服などでは無く、何のためにこの与えられた勇気によって、困難を乗り越えていくのかだけなのです。この「何のため」という問いの答えこそが、東洋のわれわれが理解する、「志(こころざし)」と呼ばれるものでもあると思います。


 人が世に問われるのは、その貴賎では無く、名の有無では無く、そして貧富などでもありません。その志の高貴さのみで、人はこの世からその生を問われるのだと、知らされたのです。


 死が完全なる平安であるならば、それは無(む)であり空(くう)、または極端な場合には空(から)の状態になることかもしれません。しかし重要なのは無、あるいは空を迎える自分は、心安らかな状態になるということです。


 ならばこの無を想いつつ、生きていく限り社会のために有なる何ものかを残す。あるいは、有なる何ものかを為す、即ち「無を想う者、世に有を為す」ことに他ならないのだと、新垣師範は理解することが出来ました。


大 会

 その後に米国の大学に留学して空手部を指導し、1980年にユタ州で国際沖縄空手道 無想会道場を開設しました。


 その時、いままで習得してきた古伝の形は、一種の空手家の文化的教養としてのみの、位置づけでした。


 これは沖縄空手の言葉で説明すれば、形は出来ても、手(注)との整合性が出来てない状態だからです。


 そのための試行錯誤の結果として、西洋身体文化の一つである、スポーツのトレーニングを意欲的に取り入れました。さらに、大会に勝つための技術の獲得に邁進しました。


 この時期に前後して指導を受けたのが、円心会館の創始者でおられる二宮城光館長です。特に当時の二宮館長は、自らが全日本空手道選手権への優勝を目指し練習しておられた時期でしたので、その多大な練習量や体力作りなどは新垣師範に大きな影響を与えています。


 道場を開設してからはフルコンタクト空手、防具つき空手である硬式空手の国際大会などで自身や生徒が上位入賞を果たし、全米では数少ない、かつユタ州では最大のフルコンタクト、硬式空手ルールの国際的な全米大会を、年に二度開催するまでになりました。


 これらの功績により硬式空手道の創始者で、かつ全日本硬式空手道連盟会長でも居られる久高空観正之先生から、1987年に米国硬式空手連盟会長の要職に任命され、かつ同年に世界空手連盟(会長十段・江里口栄一先生)から、六段を授与されました。現在、新垣師範は七段位を保持しています。

 (注) この場合の手(ティ)とは、技術と言う意味でご理解ください。


再 修 業

 だが新垣師範は、西洋文明の要としても良いアメリカにあって、除々に東洋文明が生み出した空手の形の価値を再認識します。そして現在のおおくの流会派で修行されている形とは、西洋文明の身体思想・操作で行なわれているスポーツのそれである。という事実に、突き当たります。


 ですから、前記した「形は出来ても・・・」と思い込んでいたこと自体が、間違いだと気付くことになります。本当は武術的な意味では形が出来ていないために、手が理解できて無かったのです。


 結論を簡単に記してみれば、武術としての古伝の沖縄空手の形は、東洋心身思想の極めである武術を修行・伝承するために、創作され伝えられたものです。それを現代社会に多大な影響を与えている、西洋心身思想で構成されているスポーツの考えで理解して、心身の修行をすること自体が間違いであったのです。


 もしそのような考えで形を理解した、あるいは形を使えると考えたとしても、それは大きな誤解であるか、つじつま合わせにしかならないのだと理解しました。


 すなわち沖縄空手と謳ってはいても、その実は西洋スポーツの心身思想・操作を教えているに過ぎない。沖縄空手の修行において幹となるべきはずの形が、古くからの伝統であるためにだけ存在し、形の試合に出場するため、昇段・昇級試験の課題とするため、あるいは演武などで空手らしさをアピールするだけのものとなってしまっていたのです。


 これは無想会の問題だけでは無く、沖縄、日本本土、そして世界中どこの空手道場、修行者も同じ間違いを起こしていたのだとも気付かされます。そして本当に武術として伝わった沖縄空手を理解し、その技術を自分のものとするには、東洋心身思想を元にして操作される心身で、沖縄古伝の形を修行する以外に道は無いと、認識することになりました。


 認識するのは比較的に容易でしたが、それを実行に移すには少なからずの勇気が要りました。なぜなら、それは今まで築き上げてきたものを全て捨てて、一からやり直すことを意味します。さらに、今まで信じて邁進してきたことの全てに疑問を持ち、自ら疑問を探し出して、かつ自ら答えを表示しなければならない状態に追い込むことをになるからです。


 そしてこの新垣師範が困難な迷いに直面した時、決意を導き出すきっかけになったのは、マザー・テレサ女史の「死にいく人の家」で学んだ「人の一生における、自らの役割とは何か」という問いかけに対する答えです。


 新垣師範は順風満帆であった大会や、道場での普及活動などの全てを中止して、三年の間すべての時間を武術的な意味での修行を、やり直すことに費やすことを決意します。しかしまず土台となる形の存在を根本的に考え直して、それを自分なりに武術的に理解して鍛錬するという修行は、思っていた以上に困難でした。そのために三年では無理で、その後も続き計五年ほどにもなりました。


 さらに鍛錬の厳しさは当然のこととして、全てを投げ捨てての再修業のために、道場の普及活動中止などの為に発生した経済的困窮や私的困難さは、文字通り筆舌に尽くし難いものがありました。この困難な再修業時代において、多くの空手指導者の方々の技術的な助言を頂ましたが、特に米国在の松林流・山根知念流棒術の大城利弘師範、ならびに西銘清師範からいただいた多数の助言が、新垣師範の修行上の貴重な指針にもなりました。


ナイファンチの形

 この再修行の中心となったのが、沖縄で修行時代に鍛錬していたナイファンチをはじめとする、古伝の沖縄空手の形なのです。


 その時に新垣師範が自得したのは、沖縄空手の元となった首里手の形こそが最高の戦闘思想、技術として実践でも使える本物の形であり、古伝の沖縄空手の形が含有する心身思想・操作とは、世界最高峰に位置するものであるということです。


 すなわち、沖縄での修行時代に常々聞かされていた「スイディー(首里手)こそが、沖縄の空手だ」ということを、自らの心身で再確認することができました。


 しかし歴史を省みて見ると、その首里手は二度に渡る変革を経て、大きく変わってしまっていたのです。


 それは、日本の近代化における西洋身体文化(いわゆるスポーツ)の導入、それ以前か同期にさらに輪をかけるようになされたスポーツとは異なり、かつ琉球王国時代の首里の身体思想・操作とも異なる、近年の明治期になって新しく沖縄へ移入された、中国拳法の導入の影響なのです。


 なお前者に関しては、新垣師範の主張する意見がようやく沖縄・日本本土のみならず、世界の空手修行者の間でも認識されるようになりました。そして後者の事柄に関しては、新垣師範は自らの研究の成果を、近日中に除々に発表していく予定です。


 この東洋心身文化の極めである空手の辿ってきた歴史を、自らの身体で経験するほどの修行を経て、新垣師範は沖縄の歴史そのものの再認識、あるいは再構成を余儀なくされることになります。


 なおここで記す首里手とは、琉球王国時代の国都であった首里の武士たちが修行した武術の意味です。


 そして首里手こそが、沖縄本来の武術である沖縄手でもあるのです。古来からこの首里手、あるいは沖縄手を修行する上で一番重要視されたのがナイファンチの形です。


 なぜならナイファンチの形は最高の戦闘思想・技術と記しましたが、それだけでは無く、人間が地球上で活動する時に基本的な心身思想・操作の総結晶、あるは純結晶なのです。そのために、ナイファンチを理解することは人類が地上で活動する、または生きていくということはどのようなことかと、明確に理解させる術(スベ)でもあるからです。


指導体系の再構築

 この再修業の後に、道場での教授過程を試行錯誤しながら、大幅に変革することになります。


 なぜなら武術として伝承された沖縄空手は、師と弟子の一対一に近いかたちで伝承されました。そのために多数の人間を一時期に教えるという、明確な教授方法が確立されていません。それと同時に、沖縄空手の形に代表されるような東洋の心身思想・操作は、西洋のそれであるスポーツの思想・操作とはまったくと言ってよいほどに異なります。しかし現代のわれわれは洋の東西を問わず、西洋スポーツの心身思想・操作でしか、己の身体の仕組みを理解できないのです。


 そのために武術として伝承された沖縄空手を道場で指導するには、試行錯誤を繰り返しながら、新垣師範自らの手で指導方法を編み出す以外に無かったのです。無想会において武術として伝承された沖縄空手の身体思想・操作を、大多数の人間に対して一時期に指導する方法を確立するためには、新垣師範の再修業が終わった後、さらに五年ほども掛かりました。


 この時には、沖縄におけ修行時代のナイファンチの鍛錬のやり方を基本とし、そして当時に学んだ多くの個々の空手家の鍛錬方法を、一つ一つ検討して試していくことなりました。これらの困難を克服して、現在の無想会ではナイファンチの形の持つ思想・操作を根幹として沖縄空手の形を習得し、さらに基本から組手まですべてナイファンチの思想によって、成り立っています。


著書:「沖縄武道空手の極意」

 再修行時に認識した沖縄空手の形の身体思想・操作は、後に「沖縄武道空手の極意」シリーズとして出版され、日本国内で大好評を博するとになります。そして勿論のこと、従来の身体操作とはまったくと言ってよいほどに、異なる空手の心身思想・操作に対して、賛否両論が沸き起こりました。


 しかし幸いなことに、現在の空手界ではこのナイファンを基本とした空手の心身思想・操作が、「新垣理論」と称されるまでにご理解をいただくまでになっています。


 それと同時に英語、スペイン語、イタリア語などに翻訳・出版され、世界中の人々に沖縄空手の素晴らしさを伝えています。


 このナイファンチの形に代表される、沖縄空手道の心身思想・操作の素晴らしさを、世界中の人々に理解していただくと言うことが、国際沖縄空手道 無想会の次なる使命だと信じて、今後も新垣師範は本の出版だけではなくDVDなどの動画の製作、そしてセミナー、ワークショップを日本やアメリカのみならず、世界各地で行なっています。特に空手発祥の地である日本国では、数多くの新垣清最高師範直伝の講習会が開催されると同時に、各地に同好会が設立されています。


 それと将来的には、空手の修行の一環として「形」と「組手」の大会を再び開催する予定もあります。


著書:「沖縄空手道の歴史」、「『平安の形』の検証」

 新垣清会長・最高師範が再修業の時期において、ナイファンチの形に含まれる人類至高の心身思想・操作に感嘆したと同時に、大きな疑問が生じてきました。その一つは、「なぜここまでに、空手の流会派間には理念、理論の違いがあるのか?」ということです。


 それは空手の雑誌に長期連載していた、空手の歴史を記述している時に生じた「なぜ空手の歴史は、根拠ある史料・資料に基づいたものが圧倒的に少ないのか?」と、共通する疑問でもありました。この雑誌の長期連載の期間と再修業の間に、新垣師範は現在刊行されている空手関係の書物だけでは無く、多くの日本武道、さらに歴史・社会学関係の書物に目を通して行きます。


 その時に気づかされたことは、空手の歴史における紙碑の乏しさと同時に、そのために現在の空手界においては、琉球王国時代の武術としての空手の心身理論や心身操作とは、著しく異なるものが生まれているということです。さらに武術としての沖縄空手を理解するには、琉球王国時代の沖縄の文化を理解すると同時に、その政治、経済的な立場を理解しなければならないということです。


 それらの書物を収集して読みこみ、かつ多くの人々にインタビューをするためには膨大に時間がかかり、かつそれらを体系的に理論つけて記述していくためには、さらなる時間がかかりました。その膨大な労力と時間の後に、2011年に新垣師範のライフワークの一つである「沖縄空手道の歴史」が原書房から出版されました。この本の刊行によって、琉球王国時代の武術として伝承された沖縄空手である首里手、泊手、そして古流那覇手の全貌が明らかになると同時に、その歴史的価値が認識されることになりました。


 その2年後の2013年には、近代になって古伝の沖縄空手の形を元にして創作された「平安(ピンアン)の形」の全てを解明した「沖縄空手道の真髄: 秘伝の奥義『平安の形』の検証」 が同じく原書房から発刊になりました。


 新垣師範は沖縄空手の基本であり、かつ究極の形であるナイファンチの形と、近代に入って古伝の形を原型とした平安の形を解明することによって、武術として伝承された沖縄空手の心身思想・操作のすべてを、現代の空手修行者が理解できるように解明しました。


 さらに本著によって沖縄空手の形のコン・テキストの存在を、近代に入って初めて明らかにするという、偉業を成し遂げています。


 すなわち空手の形とは、従来思われていた技のカタログのようなもの。あるいは四方八方に存在する敵に対して、アトランダムに技を出すものでは無い。


 自分の前方に位置する一人の相手に、形の始めから終わりまで、技を出し続けるものだということです。

 その為の武術的心身操作であり、「正中線」や「演武線」とは、それを最適に学ぶために存在するということを証明したのです。


 この形におけるコンテキストの存在の認識と証明は、琉球王国崩壊後の空手の修行においては皆無であり、さらに言えば空手の源流の一つである中国武術においても、既に消滅してしまった可能性さえあるものなのです。


DVD:「極める!ナイファンチ」、「極める!ピンアン」

 同じく2013年には、新垣師範の初のDVDである「極める!ナイファンチ」が製作されました。これは武術として伝承された沖縄空手の動きを現代の言葉で詳しく、分かりやすく説明すると同時に、従来は身体内部の動きであったために失伝の危機にあった武術本来の動きを、ナイファンチの各動作に沿って詳細に演じられるという画期的な動画となっています。


 このナイファンチの手ほどきを教授した動画を嚆矢として、新垣師範は更なるナイファンチの説明・解説のためのDVD、さらに平安の形の心身思想・操作を説明する動画を製作する予定です。


 その後にDVDの「極める!ピンアン」が製作されて、形の中におけるコン・テキストの存在が、動画として世界で初めて公開されるということになります。


 そして日本全国の無想会空手の同志の修行の手ほどきとして、さらには日本各地で無想会空手へ興味を持たれている方々への普及活動として、日本における講習会での様子も動画として発信する予定です。


 今後は新垣清・最高師範は自らの厳しい修行で会得した、琉球王国時代に武術として伝承された沖縄空手(首里手、泊手、古流那覇手)の形の心身思想・操作のすべてを、書籍と動画(DVD)で発表すると同時に、無想会のカリキュラムとして体系立った習得方法を、伝授することに全力を傾ける所存です。


無想会の未来

 これらの新垣清会長・最高師範の経験から生まれた、「社会的な貢献のできる空手」。あるいは、「社会に貢献できる人材を育成する空手」という理念を成し遂げる場所の一つとして、道場は存在すべきであるという強い信念が、無想会空手の掲げる理想です。


 無想会の空手は、古伝の武術としての沖縄空手です。この沖縄の武術である空手は、闘う時に世界中で最も効率の良い心身の技術です。この技術が日本文化に深く根ざす、人間として正しく生きる方法論としての「道」の思想の中に融合され、武道となり空手道となりました。


 そして武道は武術の技術を元にしての護身術だけでは無く、現代における児童のための情緒教育、試合や大会などのスポーツ的な面、そして心身を爽快にするリクレーション的な面をも融合します。無想会ではそれらのすべてを生徒の性別、年齢、体力、そして経験の浅深に合わせ、各生徒のニーズに合った指導を行い段階的に学べるシステムを確立しています。


 この確立した無想会空手の教授体系をもって、少しでも多くの社会にとって、有益な人材を輩出していきたいと念じています。