形という森を見よ!

 英語(?)の諺で、「木を見て森を見ず」っというものがあります。


 これって、現代の空手の形に完全に当てはまるものです。

 実は前回の直弟子限定・オンライン直伝稽古会において、チャンナン(「江南」の漢字でしょうが、これって、もうドウでも良いのでしょう)の小と大の関係から遡って、クーシャンクー(公総管)の形まで説明しました。


  すなわちクーシャンクー(公総管)の形の体育・体操化が、平安の初段(チャンナン大)であり、そのまた簡易化が平安の二段(チャンナン小)だ。

 ということです。


 でも、今までダーレも、これに気づく人間は存在しませんでした。

 名称が残っていても、その関係を明確に説明し、伝承している個人も、流会派も存在しては居なかったからです。


 第一、観空(カンクウ)や、松村のクーシャンク―と呼ばれる形の相手(敵)は、左横に居て、その攻撃に対処することから、形が始まるとされていたのですから・・・。

 それは、平安の初段(松濤館・極真会館系統の二段)や、二段(同じく初段)の敵は、自分の左横から攻撃してくるという、完全に間違った解釈と、全く同じレベルの間違いです。

 ただ体育・体操化した形ならば、敵の存在などは無いのでそれで良いのでしょうが・・・。。


 すなわち現代の空手、それも日本本土の空手の流会派だけでは無く、沖縄の全てと言っても良い、空手の流会派の形とは・・・。

 武術としての空手の形を、誰も理解しておらおらず、誰も伝承して居なかったという非常に厳しく、かつ哀しい現実を如実に目の前に突き付けられたということです。


 なぜここまで、我々現代の空手家は、武術として伝承された沖縄空手の心身思想・操作、更にその形に関してこれほどまでに無知なのか?

 その事柄は、少し脇に置きます。だって、本のニ・三冊分は、書き尽くしてしまうほどの理由があるのですから・・・。


 ただ、この4月24日の、直弟子限定のオンライン稽古会において説明する、ナイファンチに関して、我々は余りに無知であるということに関して少し記します。

 なぜ、それほどまでに、我々は無知蒙昧なのか?


 それは、ナイファンチ初段という、この形の全貌の三分の一の部分さえも、この150年前後の間、誰も命がけで修行していなかったからです。


 更に私が、拙著「沖縄武道空手の極意」を記した後も、その劣化コピーの人々が多く世に出ました。

 それは「有象無象」、すなわち「雨後の筍」、あるいは「猫も杓子も」っとも表されらるように出てきたものの、誰一人として、本気で修行しなかったからです。


 あるいは、何一つ、己の修行の結果からのものでは、無かったからです。


 以下の文章、私は怒りでは無く、多大なる哀しみを込めて記していきます。


 「ナイファンチの形は、始めと終わりが同じ場所」っという教えさえもが、確認して、その教えと実際の形が、その教え通りになっていないと気づき、かつそれに寸分の疑問が抱くだけの修行をした人間さえ、いなかったのです。


 これは、初段だけでは無く、二段も三段も元の位置に帰りません。

 無理やりでなければ、元の位置に帰るなど無理なのです。

 なぜなら、足を交差する際において、足を前で交差するだけだからです。

 これでは、ゼッタイに元の位置に帰るのは不可能なのは、幼児でも理解できることだからです。


 「木を見て森を見ず」という、上記の諺に照らし合わせると、その木さえもが、箱庭の、あるいは盆栽の木であり・・・。

 それを各個人が、自らの乏しい練習の結果から出た、誤解・曲解で、解釈したからです。


 チャンナンの形で言えば、自分が対峙する相手が、何処にいるのか?

 なぜ初段と二段は、その難易度の順になっていないのか(松濤館・極真会館系統の難易度は、体育・体操的には正しい順位なのです)?

 っと、同じ初等のレベルにさえに気づくことさえ無い、怠った練習しか、我々はナイファンチの練習をしていなかったのです。


 では、なぜ私如き、浅才で怠惰な人間が、気付く事ができたのか?

 それは形の原型を推察でき、かつ下記の大のレベルに復元するまで、修行によって自分を追い込んだからです。


 すなわち現代の空手とは、全ての流会派において、近代化を目指した糸洲安恒・師の手によって

(中国武術からの)原型⇒(沖縄・琉球化)大⇒(体育・体操化)中⇒(簡単化)小⇒(簡易化)極小と、全ての形が、変革されています。


 なお、これとは別に松村宗昆の目指した、琉球(+日本剣術という意味です)化の、大・中・小化がありますが、これは何時か別な時に記します。っとは言っても、もう国際沖縄空手道・無想会の直弟子諸氏は、完全に理解なさっているはずです(でなければ、困る!)。


 日本本土の空手、そしてその形は小、あるいは極小のレベルであり、沖縄の全ての流会派(首里手・泊手・古流那覇手)の形は、辛うじて中のレベルを保持しているか!? どうか!?のレベルです。 


 この中・小・極小の体育・体操化、簡単化、

 そして簡易化された形は、使えません!

 これは歴史的推移を見れば、誰もが理解できることです。

 これらの形は、体育・体操化においては、必然であり、正しいでしょう。


 しかし武術としての空手の形、すなわち「形を使う」、「使える形」という側面から見ると、完全に退化であり、空手の牙を根こそぎ抜いてしまう行為以外のナニものでも無いのです。


 今回直弟子限定・オンライン稽古会のために、ナイファンチ初段と、その全伝を完全に説明が可能なまでに自分を追い込みました。


 その結果思ったことは、私・新垣清という人間は、この素晴らしい形を、「群盲象を評す」のレベルでしか、理解して居なかったのだ!

 っという自分へのツライ評価と、


この形は、これほどまでに素晴らしいかったのか?

 っという喜びです。


 これは誤解を招くと困るので、明記しますが・・・。

 ナイファンチとは、美しい形だ。

 ナイファンチからは、気が発せられる。

 などと言う陳腐な、荒唐無稽な意味無き理由などからでは、無いのです。


 全てが体系化されて、全てが理論化されているのです。

 それは、科学なのです。


 拙著「沖縄武道空手の極意」で、ナイファンチの含有する心身操作は、説明しました。


 次ブログでは、その他のナイファンチの形の、主に構造に関する箇条書きを記して行く予定です。これは下記のオンライン稽古会への、準備の為の覚書だと捉えてください。

国際沖縄空手道 無想会 International Okinawa Karate-do Muso-kai