観空の形、動作の出所
武術として伝承された沖縄空手の創生には、日本剣術の心身思想・操作が非常に影響を与えています。
これは私・新垣清が指摘する以前は、あまり認知されていたものではありません。
いわゆる「手」と呼ばれた、古来からの沖縄特有の武術とは、日本剣術がその基本となっています。
そして、明時代の中国拳法(主に打撃系格闘術)が、その他の部分を占めています。
空手の突き蹴りは、この明時代の中国拳法の影響が大きいと思っています。
さて、この日本剣術って・・・、現在の竹刀競技を捉えて考察してしまうと、完全な間違いを犯してしまいます。
もう~、思考が明後日の方向を目指してしまうのです。
前ブログの試合に慣れるな! でも説明しましたが・・・。
素手素面の徒手格闘技の武術である空手の組手・試合では、全身を使えるために、ルールによって使える業・技と禁止業・技を峻別して、どの程度まで打撃の衝撃を与えるのがOKなのかを、事前に決めて置かなければ、死傷者多数続出で、もう稽古どころではありません。
ですから業・技の限定度が高すぎて、すなわちルールでの束縛が強すぎて、その組手・試合に慣れれば慣れるほど、実戦から遠ざかり、実際には弱くなるというジレンマが生じてくるのです。
その点、刀という特定の武器での戦いである日本剣術では、触れれば切れる日本刀を使用するのですから・・・。使える業・技は、自ずから限定されていきます。
さらに刀というものを、竹刀のような替わりのモノを代用しても、ある意味OKです。
っと思ったのですが・・・。
ナイファンチの修行中に、「アレッ!」という思いにとらわれてしまったのです。
すなわち、現代の竹刀剣道での武器の使用方法。当てる方法、そして当てる場所は、非常に不合理であり、かつ非常に非効率的であると思い至ったのです。ちなみに、私剣術に関しては門外漢です。
その疑問をズーッと胸に抱きながら、日本の剣術というものを自分ながらの方法で研究していくと、戦前生まれの剣術家の剣の使い方と、戦後生まれの剣術家のそれには、際立った違いがあると理解できました。
さらに彼ら同士が行う、二人一組で行う、いわゆる組大刀もゼンゼン違うもの(レベル=ゴメン)だということも、観取ることが可能になりました。
個人の剣技も、組大刀の技量も、もう全くの別物としても、過言ではありません。
日本刀は、振ったら、駄目なんじゃないか?
との想いでしたが・・・。いまの私は、それが確信にまで至っています。
この件に関しては、国際沖縄空手道無想会の直弟子諸氏には、オンライン直伝稽古で触りの部分は解説しています。
さらに懇意にして頂いている日本人のアメリカ在の先生に、私の日本剣術に対する想いと、それが空手と、その形に与えた影響をお話ししました。この方は、古流剣術の修行者でもありました。
すると後日、「面白い動画を、YouTubで見つけました」っと、動画を送ってくださいました。
それは、日本の古流剣術流派。それも、薩摩藩に伝わった流会派の組大刀の動画でした。
中国の軍事教練の徒手格闘術の一つの套路(≒形)であった、クーシャンクー(公総管)と呼ばれる形が、なぜ「観空」と日本本土へ移入される際に、船越義珍師によって変名されたのか?
それは、空を仰ぎ見る動作が、形の初動にあるからです。
本来は、これは相手が自分の襟元を両手で捕まえる瞬間に、自分の両手を相手のそれの内側に走らせ、そのまま相手の肘内を叩き、喉輪を入れる動作です。
ここまでは、武術として伝承された沖縄空手の心身思想・操作を理解できれば、自ずから結論が出ます。
しかし、そのディホルメ化、装飾化の原因になった動作が存在するはずなのです。でも、その出所が分かりませんでした。
それを、このK先生はYouTubから見つけ出してくださったのです。
感謝感激・雨霰です。
この組大刀の初動で、北谷屋良のクーシャンクーや、観空の形と全くと言って良いほどの、空を仰ぎ観るような動作をします。
それもこの剣術の流会派は、琉球王国時代に沖縄を支配下においていた、薩摩藩で伝承されていた流会派なのです。拙著「沖縄空手道の歴史」でも、チャンとこの流会派の事柄は記しておいた心算ですが、ここまで顕著に同じ動作があるとは・・・。不覚にも、気づきませんでした。ホントウにもう・・・、
\(^_^)/です。
もうここまでゾロゾロと出て来ると、中国清王朝の南部地域の福建省で、琉球館を護衛していた緑営(漢人部隊)、すなわち把門官たちの、軍事教練における徒手格闘技の体系さを明確に証明出来る。
すなわち、私が常々宣べている、サンチン(三戦)からスーパーリンペー(壱百零八歩)の、15の形の一覧の原型ごときが出てくるのかもしれません。
ワクワク! ドキドキです!
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