己の、覚悟の「甘さ」

 前回のブログ「ここまで変えられていたなら、ゼッタイ無理だ!」で・・・。

憤りに近い想いさえ、湧いてきたのです。

 っと、記しました。


 以下、正直に記します。

 「お前・新垣清は、まだ分かっていないのか?!」

「お前・新垣清は、まだ幻想を持っていたのか?!」

 っという憤りです。


 私は、現代の空手とその形は、日本の近代化、そして沖縄の日本化に沿うようにして、必殺の術。すなわち武術としての業・技から、意図的に、牙を抜かれたモノなのだ。

 そのために・・・。

 それが実際の闘いに使えないのは、当たり前のハナシである。


 なぜなら、近代空手の父である、糸洲安恒・師と、その周辺の先駆者たちは、それを目的として、空手を改変したのであるのだから・・・。

 っと、私は今は無き、(株)福昌堂の「月刊・空手道」に十年前後連載した、「空手三国志」の時代から、もう三十年以上も記してきて、かつ自分でも認識していた心算です。


 それでも、必死で武術として伝承された沖縄空手の再興を目指して、武術としての心身思想・操作による形を解明し、かつ伝授するところまではこぎ着けました。

 その過程において、誠に幸いなことに、近代の時代の空手はいざ知らず・・・。


琉球王国時代に伝承されていた武術としての沖縄空手とは、掛け値なしに古今東西を問わず・・・。

 世界最高峰にある心身思想・操作である。との確証を得て居り、それを証明も出来、かつ伝授出来るレベルまではこぎ着けました。

 ホントウに、ラッキーでした!


 しかし、近代において、どこまで沖縄県の空手家、武術家、武道家が、空手から牙を抜く作業を行ったのか? 

 それに関しての認識が、あまりにも甘かったのです。


 このクーシャンクー・小。観空・小っという・・・。

 中国原型の形。

 かつ琉球化した原型のクーシャンクー(大)も、辛うじてい残っているものと比較してみると・・・。

 「ここまで、変えたのか!?」

 「これでは、ナンにも残っていないではないか!?」

 っという、想いに至ってしまうのです。


 そして、前プログ、そして冒頭にも記したように、それを理解していたはずなのに・・・。

 自分の都合の良い願望によって、それらを忘却していた、自分自身に対して腹が立ってしまうのです。

 自分自身の覚悟が、甘っかた!

 のです(涙。


 私は、幼少の頃から空手に憧れ、かつ修行してきたモノです。

 そして、海外で指導しているものです。

 そこには、ある意味、憧れと、希望がありました。

 でも、それは幻想にしか過ぎなかったという、厳しい現実を再び認識しなければ為らない。

 それは、やはり、辛いことです。