「雲は天才である」ように・・・、「パッサイ(八十一戦)の形」の解明
「雲は天才である」ように、『武士・松村』こと、松村宗昆は武の天才です。
これは祖堅方範師の伝承する、パッサイ(八十一戦)の形の小を解明すれば、自ずからの導き出せる結論です。
https://www.youtube.com/watch?v=mkctpBLc1_Y
以下、すべて私見、新垣清の文責です。
このパッサイと呼ばれる形は、1800年代初頭に「唐手・佐久川」が、清朝軍隊の漢人部隊で軍事教練として行われていた15の形の一つです。しかし非常に沖縄化されており、かつ首里、泊地域に伝承されてやや異なった様式が取り入れられています。
しかし、その構造においては大体において同様です。
前記の祖堅系統にはパッサイ(八十一戦)の形が、大、小の二つあり、そして前方への交差立が、左足前交差になるのがその著名な特徴です。ちなみに、他の流会派のパッサイ(八十一戦)では左足は後交差となります。
泊手系統では親泊興寛師から喜屋武朝徳師、そして仲里常延(少林寺流)、島袋善良(中部少林流)、長嶺将真(松林流)の各師に伝承された「パッサイ(八十一戦)」の形があります。
この形は祖堅系統の「パッサイ(八十一戦)・大」に相当する形で、構造的には武術として伝承された沖縄空手の様式に「完全に・・・!」っと言ってよいほどいマッチします。
すなわち、コンテキストがあるのです。
ただ現在の泊手にも継承されている「猫足立ち」の存在は、機能的には疑問符が付くと思っています。
首里系統には祖堅系統とは別に、糸洲安恒系統(小林流など)にも「松村のパッサイ(八十一戦)」という形が存在しますが、これは別名「多和田のパッサイ(八十一戦)」とも呼ばれるように、松村宗昆の弟子であった多和田から知花朝信師に伝授されたものです。
文責を新垣清と強調して記しますが、この形の構造には、一、二か所ほど間違いがあるかと思います。すなわち「これでは、相手にブチ当たってしまう?!」っという箇所があるのです。これは武術的には間違いであり、伝承の過程で混乱が生じたと思われます。
他にも「古流パッサイ(八十一戦)」という形も存在しますが、煩雑になるので別の機会に記します。
他に小林流には「糸洲のパッサイ(八十一戦)」と呼ばれるものがあり、これは糸洲安恒師から知花朝信師への流れです。この形の特徴(そして糸洲系統の特徴)は、開手では無く拳(閉手)で形が演じられます。
この形のダイジェスト版が上記の祖堅系統のものとは、別の「パッサイ(八十一戦)・小」となって伝承もされています。
この糸洲系統は、もともとは「開手」の形を、「閉手(拳)」に変革し、形そのものが体育・体操化してしまっているので・・・、武術的要素を語るのは無意味ですが、形の中のコンテキストの大部分は、そのまま保存されています。
このようにパッサイの形は・・・、もう数多くの様式・形式が存在して、「何が何だか、意味わからん!」っと従来は言われていた形も、体系立ててしまえば、スッキリと理解できるものなのです。
ただそれには空手の歴史と、技術への理解が必要不可欠だということであり、それが欠落していたが故に、「アジア的停滞」を免れなかったのだと愚考しています。
この稿、続きます。
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