有難いことではあるけど・・・、
お屠蘇も飲んで(白ワインだけど・・・)、お雑煮も食べて・・・っと。
外は雪で寒いけど・・・、室内は暖かいし・・・。
道場は休みの上に、元旦はジムが開いていたので、好きなだけサウナに入れたし・・・っと。
異国の地のアメリカ・ユタ州で、皆様の期待を裏切る事無く、怠惰な正月を満悦しているわたくしですが・・・。
今年と来年は勝負の年なので、チョット自分に厳しくしなければ、為らないようです。怠け者のわたくしにナニが出来るのかは、甚だ疑問ですが・・・。まあ、頑張ります。
っと言ったあたりで、国際沖縄空手道・無想会の関東一円の世話役を遣っていただいている、「南風」氏のブログを拝読して、チョット一言・・・。
この、「南風」氏・・・。T大学で教鞭を執られ、かつ大学の無想会同好会でも指導を為さっている方で、当然のごとくインテリだから、こちらがモノ言うのも怖いんだけど・・・。
そのブログで「再構築かオリジナルか」 っという題で、我が無想会空手は、もうここまで「武術として伝承された沖縄空手」の事柄を、解明し説明出来れば・・・。
「これはもう、『アラカキ・オリジナル』と言うべきでは無いか?!」っという、有難いお言葉です(っと自分は、解釈しています)。
でも・・・、別に謙遜する心算は無いけど・・・。違うんですよ。ヤッパリ!
良く、「空手は、生涯に渡って修行すべきだ!」、「空手道とは、人生そのものだ!」 「形は死ぬまで極めることは、不可能だ!」。だから、「死ぬまで、精進」。「死ぬまで、修行」なのだ!
などなどの、言葉があります。まあ、もっともな事かもしれません・・・。
でも、そのような言葉を引き合いに出して、柄にも無く謙遜して、「違うんです!」っと言っている訳でもありません。
それにわたくし個人は、別に自慢じゃないけど・・・。
非常にチャランポランな人間なので、上記のような「空手とは・・・!」などと、真面目一辺倒な、あるいは辛気臭い言葉は、苦手なのです(ゴメン!)。
わたくしは、「空手の形は、その核となる部分までシャブって、シャブリ抜くものだ」っと思っていますし、その心算で自分の修行(練習・研究)をしてきた心算です。
「鰯の頭も、信心から・・・」で、空手や空手の形を信仰したり、神秘化したり・・・。そして、形を「神棚に上げる」ような気持ちは、サラサラありません。
別に、名古屋名物の手羽先では無いけど・・・。骨の髄まで、シャブリ尽くすことこそが、形の修行であり・・・。その為にこそ、形が存在すると思っています。
空手の形は、「使ってナンボ、使えてナンボ」でしか無いのです。
その、気持ちを持ち続け・・・。まあ怠惰なわたくしなりの、他人が観れば笑ってしまう程度の努力で・・・・。運よく
首里手、泊手、古流・那覇手の「琉球王国時代に伝承された沖縄空手」の、全ての伝承経路、形の意味、心身思想・操作を、解明することが出来ました。
なぜ、わたくし如きの人間に出来たのか?
それは、明治維新以後この方、ダーレも空手の形に死ぬ気でそこまで向き合った人間が、わたくし以外に居なかっただけのハナシです。
でも、この解明から出てきた、「武術として伝承された沖縄空手」の心身思想・操作って、誠に残念ながらアラカキ・オリジナルでは無いんですよ。
すべては「琉球王国時代」の琉球武士(主に首里)たちが遣っていたこと、考えていたことを、わたくし・新垣清が、現代の言葉で焼き直ししたものでしか無いんです(嗚呼、残念)!
これは、焼き直しに生涯をかけたわたくしが、一番良く知っています。
現在の東芝(東京芝浦電気)の元となった、田中製造所を作った、田中久重制作の「万年時計」の事柄を描いた動画があります。https://www.youtube.com/watch?v=N35jJKJKRl8
この田中久重の発明と同じく、われわれは、日本の江戸期、沖縄の琉球王国時代の人々の創意・工夫、そして心身思想を決して過少評価してはなりません。
それは上記のような、形を神聖化、あるいは神秘化する。あるいは、「昔は良かった!」などという回顧主義では無く・・・。
人の頭脳というものは、与えられた条件下においては、「その決意において、どうにでもなる!」っとまで言える局面があるからです。
「万年時計」と同じく、武術としての空手と、空手の形の心身思想・操作に関しては、わたくし・新垣清が行ったことと言えば、上記の動画に出てくる「SEIKO」社を主体とする研究者・技術者の方々の、ミニチア版のようなものです。
この稿、あともう一回記します。
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