「観空の形」の敵は、真正面です。

 巷で北谷屋良(チャタン・ヤラ)のクーシャンクーなどと呼ばれる形の初動では一応、自分に敵対する相手は、真正面にいます。

 では、その糸洲バージョンとしても良い、糸洲のクーシャンクー、または松濤館系統で「観空」と呼ばれる形の敵はどこにいるのでしょうか?

 これを、現代空手では左と右から攻撃してくる相手への、手刀受けと解釈してしまっています。

 すなわち敵対する相手・敵は、左右に一人づつ(?)いるという解釈です。

 まぁ~、その後に相手は、前後左右となって、まったく意味無き!っというか、下手な殺陣でもここまでは・・・。っという塩梅になりますが・・・。

 私・新垣清と国際沖縄空手道・無想会においては、この敵の存在(位置や行動)は、非常に重要な意味を持ちます。

 当たり前のハナシで・・・。

 それは分からなければ、一体自分がナニをやっているのか?が、理解出来ないのですから、「形を使う」などのレベルには到底行き付けないのです。まったくの夢物語で終わってしまいます。

 現代の体育・体操、スポーツ、競技、レクリエレーション、そしてエンターテイメント化してしまった空手ならば、それはそれでOKなのでしょうが・・・。

 少なくとも弊会は、「武術として伝承された沖縄空手の再興」を謳っています。

 そのために、この敵の居場所知らずなどという現状は、笑い話にさえなり得ません。

 なぜなら、この敵が何処に存在するかで・・・。

 クーシャンク―・観空の形だけでは無く、その影響下にある平安(ピンアン・ヘイアン)の形の、武術的な意味がまるで異なってきますし・・・。

 その元となった、江南(チャンナン)の形の構成に根源的な差異が生じるからです。

 ここで、正直に記しますが・・・。

 クーシャンクーも、観空も、平安も、江南の形も、相手、または敵は、自分の真正面にしか居ません。

 そして相手は常に一人で、同じ人物です。

 そして空手の形の中の技は、全てその前後の相対関係が繋がります。さらに、その力の半部は重力の力(すなわち自然落下)を使います。だから形は使える。使う事が出来るようになるのです。そして、そうでなければ、形は、存在する意味が無いのです!