極真会館の手刀受けに残る、首投げの跡
学童・児童のための、体育・体操として「平安初段・二段・三段・四段・五段」は創作されました。
これは、空手を近代日本の中核に導入しようとした、「近代空手の父」である糸洲安恒・師の、歴史に残る偉業です。
【空手歴史】糸洲なくば空手は存在しない!! Itosu Anko: Savior of a Cultural Heritage
その創作の元には、古伝の武術として伝承された沖縄空手(首里手です)の、ナイファンチ(内帆船・南方拳の漢字か?)、クーシャンク―(公総管)≒観空、パッサイ(八十一戦)。それにジオン(撃五)などの影響があります。
それと同時に、この形の元来のカタチとして、「チャンナン(江南の漢字か?)」という形が、元にあったと言われています。
私は自らの修行の結果から、この「チャンナン(江南?)」の形は、当時の沖縄の人々が中国(清王朝・その前の明王朝を含む)の事を呼んだ、「チャンナン」の呼称から拝借したものであるだろう!?
それにこの「チャンナン」は、中国からの渡来では無く、沖縄の人間が創作したものである(これは、ほぼ自分の中では確証です)。っとの結論に達しています。
ちなみに、日本本土や日本人のことを当時は「ヤマト(大和)」と沖縄では、呼称していました。
すると、平安初段(松濤館・極真会館系統の二段)と、平安の四段は、クーシャンク―(公総管)、あるいは「観空(カンク―)」と呼ばれる形の、初動からの拝借だと理解できます。
そして、巷で「北谷屋良(チャタン・ヤラ)の公総管(クーシャンク―)」と呼ばれる形において、自分が対峙する相手、すなわち敵は、自分の真正面。
それとは違って、「カンク―(観空)」の形の、最初の相手(ホントウは、最初も最後も無い!)は、自分の左横から攻撃してくるとされていました。
その左横からの攻撃に対して、自分は「後屈立ち」≒(これは松濤館系統のみ)、になって、中段の手刀受けで受ける。
これが、松濤館から枝分かれして、日本柔術の影響を強くうけた和道流では、手刀の位置が高くなって、上段受けで受ける。
極真会館系統では、手刀は中段だが、立ち方は「猫足立ち」っとなる。
とされていました。
しかし・・・。
私は、自らの修行から得た結論として、この平安初段(松濤館・極真会館系統の二段)と平安四段の、敵の位置の想定は完全に間違いである。
なぜなら、それらの元となった、「カンク―(観空)」の形の、初動の相手の位置の認識が、完全に間違いである!
からです。
注・本ブログの文責は全て私・新垣清です。
あの左右への「後屈立ち」、あるいは「猫足立ち」になって手刀をする動作は、相手の繰り出す、自分の身体に向かっての突きへの「受け技」では無く。
正面から自分の襟首を取りに来た、相手の腕を「空を観る」動作(ウンナノ無いって!)で、払い・・・。
その後に、喉輪で相手を攻撃し(これが「チャタンヤラのクーシャンクーの形」の、最初の前方への手刀)、相手の頭を抱えて、左右に振って、相手の側頭部に、「膝蹴り」を出す動作なのです。
通常は、この左右の膝蹴りが抜けてしまっています(ってか、もう体育・体操だからナンでも良い!)。
ただ、島袋龍夫・師の「一心流」には、僅かに残っていました。
昔のハナシです、現状は不明。
奇しくも、大山倍達・師の創設した極真会館の「観空の形」においては、この部分は、円を描いて手刀を出す動作となっています。
あれこそが・・・。
相手の首を抑えて、自分の横に持っていく動作の名残なのです。
武術としての形ならば、その後に左右の膝蹴りが出ます。
これが、現在の極真会館の「観空の形」の、左右への横蹴りです。
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