ナンで体育・体操の空手を遣らないの?

 私・新垣清と、その主宰する国際沖縄空手道無想会は、武術として伝承された沖縄空手の再興を謳って修行し、かつ普及活動を行っています。


 もう日本国で空手を修行なさてっている方々は、自らのやっている空手とは流会派の違いはあれど・・・。

 そして、指導者の違いはあれど・・・。

空手の全ては、日本本土、そして空手の本場とされる、沖縄の地を問わず、その全てが体育・体操化されたものである! っと、お気づきにはなっていると思います。


 さらに現代における武道という言葉は、体育・体操、スポーツ、レクリエーション、そしてエンターテインメントを含む。っと言うか、それらが主であり、肝心の武術というものは、非常に割合として少ないものだ。ってか、空手の形競技などは、その武術的要素は皆無に近いものなのだ。とも、お気づきに為られていると思います。

 少し厳しく言えば・・・。私自身としては、ある年代、またはある年数の修行を経て、それに気づかない空手家は、ダメだと思っています。

ゴメン!


 でも、現代社会が求めるのは、体育・体操、スポーツ、スポーツ、レクリエーション、そしてエンターテインメントの空手なのです。武術なんて危なくて・・・。とんでもないものでしか無い! っというのが一般の常識であり、私自身も、ある部分そう思っています。


 では、なぜお前とお前の団体は、「武術としての沖縄空手の再興」などという、時代錯誤、すなわちアナクロニズム丸出しのスローガンを掲げて、文字通り、悪戦苦闘しているのだ?っという疑問が沸いてくるはずです。


 これは他人だけでは無く、弊会の会員諸氏にも時々は沸いてくる疑問でしょうし・・・。

 当然ながら、私自体が「ナンで、こんな因果な事を遣らなければ為らないの・・・!?」っと、ポツンと独り言をつぶやく時もあるのです。


 まぁ~答えを人それぞれでしょうし・・・。会員諸氏もそれぞれの理由から、弊会に入門なさったのでしょう。

 ただ、私個人に限って言えば、答えは簡単です。

気付いてしまったから!です。


 すなわち、非常に簡単なことなのです。

 自分が空手の修行と指導を、一所懸命やっている途中で・・・。

 「これって武道の中核であるはずの武術とは、ゼンゼン違うもんじゃないか?」っとある時、気付いてしまったからなのです。


 アンデルセンの童話に、「裸の王様」っと言うものがあります(まぁ~題目違いもあるけど、主題は同じ)。

 その主人公(?)の王様が、自分が裸であることを知った時は、王様自体が恥ずかしくて、行列の最中で行き場を失ったはずです。っと同時に、 王様の行列を見ていた群衆も、自分たちの目のやり場に困ったはずです。


 私の場合も、それと同じだったのです。

 体育・体操の空手ならば、そしてスポーツの空手ならば、さらにはレクリエーション、そしてエンターテインメントの空手ならば・・・。それはそれで割り切ってやれば良いのです。


 さらには、裸になるのは困るから・・・。「アッ! 若い女性は、それでOKでお願いします!」っと、なぜか独り言がここで入る・・・。

 レオタードを着けようが、赤いリボンのある空手着風のモノを着ようが、それはそれでOKだと私は思っています。だって、現代の空手着自体が、柔道着からの応用なのですから・・・。

 競技空手ならば、男女の選手も、遣りたいならば、お化粧もバンバンやってください。その方が、観客も喜びますし・・・。


 でも、それは武術では無いと! っとご理解なされてください。

 そしてわれわれ日本の心身思想とは、「生死の狭間」の生き方、かつ死に方を学んだからこそ、世界に誇れるほどの高みにまで上り詰めることが出来たのだ! との理解だけはなされてください。


 そして武術としての日本武道には、その高みに、昇れるだけの技術論が存在するのだとも・・・。

 かつ、私・新垣清の、誇大妄想的な想いとして、世界を覆っている西欧文明は、この21世紀の現代に、限界を露わにした。


 そして、その限界を打破して、新たなる世界文明を創出するには、自らの文化、すなわち東洋文明の根源を明確にして、西欧のそれと激突させて、新しい世界文明を、創出させる以外に、道は無い!っと思っているからです。


 それが、私自身にとっては、我が国際沖縄空手道無想会の究極の使命だと思っています。

国際沖縄空手道 無想会 International Okinawa Karate-do Muso-kai