業(ごう)とはナニか?
前のブログで、修行で解脱を得る!っという、一種意図的な「脳の書き換え」は、私のような凡才には非常に大変でして・・・。それこそ、塗炭の苦しみっと言いましょうか・・・。
まぁ~、命がけです!
でも、怖いことに、有名な言葉にあるように、宗教にしろ、武術としての武道の修行にしろ・・・。
仏に逢えば仏を殺し、祖に逢えば祖を殺し、羅漢に逢えば羅漢を殺し、父母に逢えば父母を殺し、親眷に逢えば親眷を殺して、始めて解脱を得ん! っという事なのです。
そして、その後に、自分に逢って、自分も殺しちゃうんですよ!
では、この殺す自分とは何か?
修行の果てで、私なりに、それって、業なんだな! っと分かってきました。
では、業(ごう)とは、何か?
これも、まぁ~、一応考えて、自分なりの答えもでました(次回のブログで、詳細を記す予定)。
それって、自分が「おギャー!」と生まれてきた時からいままで、生きてゆく過程で、自分の心や身体についてしまった、澱(おり)、または垢(あか)みたいなもんだな!? っと思うまでになりました。
まぁ~、中には「前世の業」などという宗教や、人も居ますが・・・。
あんたね! そこまで、責任取れないって!っというのが私の思いです。
なお、私聖職者っという、胡散臭い人間続出の職業に余り興味を示しませんが・・・。
聖職者の中の極一部には、われわれ武道家が、逆立ちしても勝てない人間が存在する。っという思いが、明確にあります。
でも・・・。皆さま、新興宗教にハマったら、ダメですよ!
なぜなら、この極一部の聖職者・・・。
彼等の修行とは、われわれ武道家・空手家が、死に物狂いで求めているものとは、もう一段上のレベルのものをであるはずなのだ!っとの想いが、私にはあるからです。
武道家・空手家などという存在は、言ってみれば所詮は、勝負論、勝敗論の探求者なのです。
自分の修行を振り返って、いまだから言えますが、私の文字通り、命がけの修行とは、勝つための、そして(いろいろな意味での)戦いに生き残るための、合理的な理論・操作の追及が、その最終目的だったのです。
人間の思考の中で、最も効率の良い方法である、自然科学の方法、すなわち数式や、物理の法則、さらには人間工学(まだ、私の方が、現代のそれより僅かに上のレベルのもあります)で、身体操作の全てを理解し、かつ使えるようになるというのが、武道・武術の究極的な修行で得ようとするものなのです。
私の場合には幸い、五年前後で、その答えに到達することが出来ましたが・・・。もし答えが出なかった場合、見つからなった場合には、それこそ自らで命を絶っていた可能性も高いです。
一応、そこまでは遣りました。
でもそれって、ある意味、答えのあるものから、答えを導き出すことのなのです。
それ以上のものでは、無いのです。
まぁ~ある意味、答えを出さない事には、武術の修行に為らない!ですから、
答えが得れない時には、武を捨てるか、自分の命を捨てるかの、二者選択しか、残っていないとも言えますが・・・。
しかし、神・仏に使える聖職者と呼ばれる人々の修行とは、それとは異なるものである! いや! 異なるもので無ければ為らない! っと、私は自らの修行を経て思っています。
これは、キツイです。
この稿、続きます。
0コメント