「我意(がい)」と向き合う (キツイよーっ!)
畢竟(ひっきょう)・・・。
禅にしろ、修験道にしろ、千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)にしろ、修行というものは、自らの業(ごう)に向き合うことなのでしょう!?
この業とは、いわゆる我々の行為のことです。この行為、心の行為も含むと思う(?)ので、「思考と行為」の、全てをさすのでしょう。
我々は、生まれてきてなす行為とは、自らの損得、好き嫌い、善意、悪意などの、いわゆる「我意」というもによってなされるものです。
そのために、心身文化・操作としては、我々人間の動作において生じた癖(くせ)でもあり、あるいは自然の法則を、損得、好き嫌い、善・悪意などの我意で・・・。
間違えて解釈した故に生まれてきた動作と、多々なるのです。
まぁ~、私のような人間は、多々どころか、何時もですがね(涙!。
これを、私の身近な空手に置き換えてみると・・・。
現代の空手において、身体操作の基本とされ、正しい動きとして賞賛・奨励ている、
足で地面を蹴る。
腰を回す。
腰を振る。
肩を出す。
膝を屈して、内側に向ける。
呼吸で、動作を操作する。
動きに、リズムを付ける。
等々は・・・全て自然な身体の動きを、見極めることが出来なかったことの名残です。
少し詳しく記せば、これらの動作って、相手に自分の攻撃が当たった後での動作、すなわちフォーロ―・スルーなどを、間違って解釈してしまった、未熟な人間たちが生み出した、運動法則でしかありません。
または首里手に、そして武術として伝承された沖縄空手には存在しない、「後屈立ち」や、「猫足立ち」などが、「観空(≒クーシャンク―・公総管)」の形の初動を間違って解釈してしまった。
あるいは体育・体操化したのを、武術的に意味ある動作である。などの誤解・曲解から生まれたものです。
まぁ~、それらの名残で現代空手が成り立っているというのは・・・。一抹の寂しさも感じますが、真実なのですから、これはもう仕方がありません。
ってか・・・。体育・体操ならば、身体を大きく使うことがその主なる目的なので、ナンら問題はないのです。
ただ武道・武術では、上記の動作を、、悪癖(あくへき)と呼びます。
この心身操作の悪癖に加えて、重力の作用っの、存在があります。これって、観えないし・・・。通常は感じないので・・・。
モノの本質を見る目(これを通常、観(カン)の眼・または観(カン)の目と言います)を持たない・・・。
われわえ凡人は、得てして、これは神秘的な力が沸いている。あるいは、神秘的な力を使っている。っと思ってしまう。あるいは、信じてしまうのです。
これらの思想的、または法則的には、重力の作用に代表される物理の法則などを、「気」などっと、間違って理解することが、その著名な例です。
ここまでは、真摯な気持ちでの修行でも、間違った理解や、信じることは・・・。
ある意味、その人の理解力の不足や、思い込みであると解釈できますが・・・。
厄介なことには、その誤解、未熟な理解を利用する人々が、現代の武道界で時々出てきます。
これがいわゆる、「野狐(やこ)禅」などと、言われるものです。
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