「脳の書き換え」への代償
私、このコロナ禍で一時期、道場が暇で暇で堪らなくなった時期があります。
要するに、生徒が来ないのです。
時間が出来たら、ジムに行って自分の運動をすれば気も紛れるのでしょうが・・・。肝心のジム自体が、閉まってしまっていましたからねっ。
暇を持て余してしまうと、私のような人間は、すぐ不善に奔ろうとしますが・・・。
まぁ~、そこは、お酒で抑えて!とっ・・・。
その時にネットで、曹洞宗の大本山である「永平寺」での禅の修行や、比叡山での千日回峰行やらを拝見していました。
失礼な言い方かもしれませんが・・・。
暇で時間があるので、繰り返し繰り返し、観るんですよね。
それも自分の修行と兼ね合わせてしまい、感情移入してしまって、「そうだ。そうなんだ!」っと頷いたり、「アッ! これは、俺には無理だ!」っとなったり・・・。
または、「そう、そう・・・。そうならざる、得ないいんだよねぇ~」と、妙に納得してしまったり・・・。
または、「ハッ!」っと気がついたら、自分の頬を涙が濡らしていたりと・・・。
まぁ~、大変です。
千日回峰行では、もし失敗すれば自決するために、常に短刀を所持し、かつ自分の葬式用に十万円を所持していると聞き、「アッ、ヤッパリな!」っと思うと同時に・・・。
でも・・・、「短刀なんぞは、要らんでしょう」っと、自らの修行と兼ね合わせて思いましたが・・・。
だって、修行が中途半端で終わってしまったり、失敗してしまえば、どうせその後の人生は、生きる屍(しかばね)として、過ごす以外にないのですから・・・。
そうなれば、心身萎えて、スグ死んでしまうでしょうし・・・。
所詮、長生きしても、死んだも同然だっと思っています。
でも、やはりあの回路を自分の脚で歩けなくなった場合には、自決する場面もあるかもしれんなぁ~?とも思っています。
物理的っというか、肉体的に、その場で自分で自分を処理するのでしょう・・・。
さらに、「葬式用の十万円は、ドルで千ドルか?」 。「豪勢だよなぁ~」。
と・・・。当時、赤貧洗うがごとしであった、私のクチから、下衆(ゲス)な感想が漏れてきたり・・・。
さらに、どうせ死に装束ならば、野辺に倒れて朽ちる!っという覚悟は、当然できているはずですしね(あの~っ、じつは、空手着の白さって、案外、死に装束なのかもしれませんもんね!)。
ただ人は誰でも、死んだときには、自分で自分の始末が出来ないために、どうしても他人の手を煩わす。すなわち、他人に迷惑をかけてしまいますから・・・。
その為の、十万円なのでしょう。
修行の苦しさは、当然あるけど・・・。
修行の怖さって、やり遂げられるのか? 挫折してしまうのか? の、そこなんですよね。
この修行の怖さの違いこそが・・・。
私の様な武道家・空手家の修行と、聖職者の修行の決定的な違いがある。とも、私は思っています。
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