武道家の修行とは
以前のブログ「業(ごう)とはナニか?」において、この極一部の聖職者彼等の修行とは、我々、武道家・空手家が、死に物狂いで求めているものとは、もう一段上のレベルのものをであるはずなのだ!っとの想いが、私にはある。
なぜなら、畢竟、我々、武道家・空手家などという存在は、言ってみれば所詮は、勝負論、勝敗論の探求者だからです。とも記しました。
私の拙い修行の例で言えば、武術として伝承された沖縄空手の、基本であり究極の形であるとされながらも、近代に入ってその存在意義を完全に失ってしまった、「ナイファンチの形」の完全解明と、習得にありました。まぁ~、本来は、武道においては解明と習得が同義語なのですがね・・・。
その修行の過程で、位置エネルギーと運動エネルギーの峻別と、その統合こそが、ナイファンチの形の奥義である!
すなわち、これこそが武術として伝承された沖縄空手さらに武術としての武道の極意である!っとの大悟にまでいたることが出来ました。
そこに至る道のりで、私は数学、物理学、解剖学、人間工学、生理学、解剖生理学を自分なりに、日英の本を駆使して学びました。
さらに空手の歴史も、一冊の本として出版できるまで探求しました。
でも・・・。これって、地球上に存在し、二本足直立歩行をする人間の、自然科学的な解明でしかないのです。
答は、科学的なエビデンスを背景にして、証明できるのです。
すなわち科学的手法である「相互否定」。その後の「相互相関」、あるいは「相互浸透」の方法で、再現性のある、そして普遍的なものにまで還元出来た故に・・・。
他の剣術などの日本武道、あるいは中国拳法の心身思想・操作まで、ある程度の理解は可能になったのです。
ちなみに、述べますが・・・。
中国拳法の套路(≒空手の形)は、近代空手が誤解・曲解して武術としての沖縄空手を解釈したと同様に、どの大部分は歴史的変移において変革され、現代のそれは、誤解・曲解、さらに辻褄合わせの総合体だと思っています。
それは、ヘーゲルの言う「アジア的停滞」の、著明な例のであるとも思っています。
何時の日にか、己の半生を掛けてその心身思想・操作を解明し、体現できる人物が出現することを期待しています(文責・新垣)。
文を戻しますが・・・。
私の修行とは、この地球上、あるいは宇宙内に満ち満ちている力(フォースです≒ウワーッ出た、スター・ワーズ)を、如何にして我々、人類が、自らの英知で理解して、純化して、勝負の場で生き残るか? だったのです。
そしてその答えが出た瞬間に、宇宙の中心から、一筋の光が、私の身体を突き抜けて行った感覚を、今でも私はハッキリと思い出すことができます(でも、ナンか危ないなぁ~)。
それは科学的解明に成功し、その操作を自得することで、武道家としての私の修行は、満行したということです。
でも、それって言ってみれば・・・。
私の修行の果てには、物理的(文字通りの、それなのです!)な回答が、待っていたということです。
流石に、手では触れることは出来ませんが・・・。それらの力(フォース・エネルギー)は、数式で証明でき、身体で感じますし、さらに結果も確認できます。
しかし、聖職者の本来の修行とは、上記の私の行ったそれとは、趣きが異なるものですし・・・。そうでなければ為らない。とも私は思っています。
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