虚構への挑戦
私如きの武道・武術の修行とは、如何に命がけであった! などと宣っても・・・。
所詮は科学的思考方法で、自らの心身思想を理解し、その操作を己のものにする。っということが修行の最終目的であり、それが修行の満行っということです。
その後は、この自分では大悟したと思う、宇宙の法則と呼んで良い、科学的思考方法である「相互否定」のあとの、「相互相関」、または「相互浸透」をもって、世の仕組みを理解し、行動していくということです。
これが私の修行によって得た、自らの「道」である! っと、今にして思っています。
すなわち、「武」というものは、「合理」っということであり・・・。
この「合理」とは、「現世」における、すなわち我々、の世界における法則・原則というものでもあります。
端的に言ってしまえば、我々、武道家とは、現世における合理性の追求者でも、あるわけなのです。
以下、全て私見であり、自分の修行の結果から思ってのことです(文責・新垣)。
しかし、本来の意味での神・仏に仕える聖職者の修行とは、上記の我々、武道家の修行とは、決定的に違うものがあります。少なくとも、私はそう思っています。
それは、彼らの修行の目的とは、現世(のみ)における、「合理性」の探求では無いからです。
彼らは、人が生まれる前の「前世」、そして人が死んだあとの、「来世」の意味付けという、非常に困難な問題に、立ち向かって行かなければなりません。
でも・・・。
この世(いわゆる現世ね!)に存在する人間、いや生物全体で、自分が生まれる前の事知っているモノ(含・人)は、居ないって!
人間で、母親の卵子と、父親の精子が結合する以前の、自分のことを知っているっと言う人は、やはりオカシイ人です。
さらに死の淵から蘇ってきた人、すなわち臨死体験を持つ人は居ても・・・。
自分が骨になった後に、蘇ってきた人は居ないのっ!
居たら、怖いのっ! 居たら、イヤなの!
それは、人では無く、幽霊でしか無いの!
私、あのキリストにしても、蘇ってきたのは三日後であり、これが三か月後だと、皆怖がるだけで・・・。だれも信者などには、為らないと思っています。
しかし我々、人間とは、その進化の過程において、尋常ならざる脳の発達により、想像力というものを発達させてしまいました。
でも、この想像というものは・・・。所詮は、虚構なんです。すなわち、フィクションなんです。
そのために、この世(現世)の前と、後を想像できるまでになったのです。
これは、人間が作り出したフィクションの上でも、その最たるものの一つでしょう。
それの前世・現世・来世を、上手く結びつけるための一つの手段として、神・仏という存在を、人間は生み出します。
でもこれって・・・、完全に虚構、すなわちフィクションなんでよ。
そして、聖職者とは、そして彼らの修行とは、この虚構・フィクションに仕えるということなのです。
これは、キツイ! ホントウに、キツイです。
私・・・。このブログ、皮肉で記しているのではありません。
これはチャランポランな自分という人間が、例え五年という短い時期ではあっても、死ぬ気で修行した後において、到達した考えなのです。
この虚構・フィクションへ、己は仕えているのだ!っということは、その者の修行が厳しければ・・・。厳しいほどに、本人自体が気付くはずです(私、確信しています!)。
だって、武道家の修行とは、宇宙の法則、すなわち物理の法則を、完全に理解し、その応用方法を自らの身体が出来てしまえば、その修行は完結してしまうのです。
この宇宙の法則は、我々、が存在している、この三次元の世界では、実際に存在しているものです。
これは虚構、あるいはフィクションでは無いのです。
重力波なども、流石に、裸眼では見えないけれど・・・。方式・法則で表すことが可能であり、現在では精密な機械であれば、観る事さえ出来るのです。
でも、あんた・・・(と、なぜかタメ口)。
どんなに目が良くても、どんなに精密な機械を持ってしても、前世も、来世も見えないって!
神も仏も、観えないって!
それに自らの半生、または全生を掛ける・・・!
これは、キツイ! ホントウに、キツイ!です。
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