空手家は、「空を観」、神仏を尊ぶ
松濤館系統で「観空」とも称される、「クーシャンクー(公総管)」の形の初動は、「空を観る!」っと言う、非常に観念的な動作だとされています。
さらに松濤館系統では、その後に続く動作は、「後屈立ち」と呼ばれる立ち方を行い、それを左右に手を手刀(てがたな)のカタチに自分の中段に構え、独特の「後屈立ち・手刀(しゅとう)中段受け」と為している。
その変形として「猫足立ち」っと言われるもので立った、「猫足立ち・手刀中段受け」も存在します。
すなわち、敵は正面に向いた自分の左右にいて、その攻撃を自分は左右の手刀受けで、防御しているのだという解釈です。
しかし、これらの受けや立ち方は、武術として伝承された沖縄空手が、体育・体操化、あるいはスポーツ化した時に生じた、誤解・曲解、あるいはつじつま合わせでしかありません。
それらの動作は、武術的には、存在しない!のです。
なぜなら、自分の敵は、正面に向いてる自分の、真正面にしか居ないからです。
これは、形の構造を理解なされれば、誰でも一瞬で理解できます。
でも・・・。
この相手から襟首を掴まれる際に、相手の肘の内側を打って、喉輪を入れるという動作を、「空を観る!」という動作として解釈した動機は、私には痛いほどに理解できる心算です。
我々、武道家・武術家・空手家は、現世における合理主義者で無ければなりません。
そうで無ければ・・・。戦いの中において、生き延びて行けないからです。
そこを間違ってしまうと、「気」などを売り物にする、「野狐(やこ)禅」、あるいは「野狐空手」などとなってしまう恐れがあります。
人は、あるいはこの世の生き物は、生き抜いて行くからこそ、「生物(いきもの)」なのです。
しかし、それはある意味、非常な哀しみを伴うことでもあるのです。
そして、我々、武道家・武術家・空手家は、その哀しみを乗り越える術(すべ)を、持っていません。
なぜなら、それは我々、の修行の目的では無く・・・。かつ、我々、はそれだけの「枠組み」に挑むだけの手段を、持ち合わせてはいないからです。
そして、この哀しみに、自らの人生を掛けて挑んでいるのが、神・仏に仕える聖職者と呼ばれる人々の修行だと私は思っています。
そこには、「ナゼ、我々、は生きているのか?」っという、前世・現世・来世をも含む・・・。
あるいは宇宙の成り立ちから、その終焉までをも含む可能性のある疑問と、格闘するということです。これは、キツイ!
それは、我々、武道家・武術家・空手家には、ありません!
これこそが、二本足直立歩行を果して我々、人類の脳が、異常な発達を遂げた故に起こり得る問いかけであり、我々、が持つ最大の「業(ごう)」なのかもしれません。
畢竟、我々、は、心(脳)の生物(いきもの)なのです。
この稿、続く!
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