徹底的に、「武の合理」を貫く
わたくしは、武術として伝承された沖縄空手で、最も重要なナイファンチの形の極意・真髄を得る修行の過程で、
「武」とは、「合理」であり、それは自然科学の法則である! っと徹底的に学びました。
しかし、神・仏とは、「合理」では、無い!のです。
なぜなら、それは虚構・フィクションであるかであり、われわれの脳が、創り出したものでしかないからです。
これを現世で得ようなどとすると、トンデモナイ有様になってしまます。
「気」の操作などを売り物にする、「野狐武道」、あるいは「野狐空手」というものが存在する所以です。
所詮、宇宙の始まりと、終わりなどというのは、限りあるわれわれ人類の脳みそで、理解できるまでのレベル!っという但し書きが常に着くものでしかありません。
そして、さらに言えば「宇宙の始まりの、前」、「宇宙の終わりの、後」などとなると、もう信じる以外にわれわれには道は無いのです。
それは、「科学ゼッタイ!」の人々への警告でもあり・・・。
われわれ人類が、常に謙虚に持ち合わせて行かなければ為らないものでもあります。
その謙虚さの、塊になる為に・・・。あるいは、その謙虚さを得るためにこそ、聖職者は修行をするのでしょう!?
でも、自分の拙い修行の結果から述べますが・・・。
このよな修行って、上記「宇宙の始まりと終わりの、前後」と同じで、一体ゼンタイ、修行の終わりが見えなくなってしまうんですよ。まぁ~、修行の開始時はわかりますがね・・・。
このブログでも度々述べていますが、われわれ武道家・武術家・空手家の修行とは、この宇宙の法則、すなわち、物理の法則(それも大部分、はニュートンの法則。すなわち、古典物理の法則です)を理解し、それを心身操作で扱えるようになれば、(本格的)修行は満行するのです。
なぜなら・・・。
そこには目に見えないにしても、法則・原則というものが、自然科学で証明できるからです。
では、神や仏という、無いもの、証明できないものを自らのモノにする、または証明するための修行の「満行」とは一体ナンなのでしょうか?
これ、わたくし非常に悩みました。
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