六年の難行苦行
私は、別に捻っている人間ではありません。
まぁ~、そう受け取られた場合は、自らの不徳の致すところなので、お詫びして、反省します。
さらに、私の宗教観も、さらに宗教の教義や歴史などに関しても、いい加減なものです。
それを、前提の上で、以下の文をお読みください。
生涯を修行に当てた人物としては、我々がすぐに思いつくのは、お釈迦様です。すなわち、仏陀です。
古い涅槃経である、「マハーパリニッバーナ・スッタンタ」という経典がありますが、それにお釈迦様の入滅すなわち、死に臨んだ際の言葉が残されています。
その中には、私の決意を促した、「自灯明」っという言葉も出てきますし・・・。
「山川草木一切悉有仏性」の元の語とも言われる、「一切衆生悉有仏性」も、ここからの出典でしょう。
でも・・・。
でも・・・・。です。
私、不心得者っと呼ばれるものを覚悟で、記しますが・・・。
仏陀の最後の言葉である、「アーナンダよ。
私は疲れた。
横になりたい」っという言葉こそが、彼の修行の過酷さ、そして哀しさを示しているではないか? っと思ってしまっています。
我々人間が求める、神・仏という虚構・フィクションの存在を求め、かつその存在を証明しようとする人間の修行とは・・・。
一体、どのような形式・様式で行われ、かつどのような形態を持って終わる、すなわち満行となるのか?
実は、釈迦の場合にブッダガヤーで開眼する以前に、その地で6年ほどの、ヒンズー教の難行苦行の修行をしています。
まぁ~、その難行苦行を仏陀は無駄であるとして、その後に菩提樹の下での瞑想によって、悟りを開かれるわけですが・・・。
私個人としては・・・。これ、あくまで私の妄想ですが・・・。
この菩提樹の下での瞑想以前に行った、6年間の難行苦行こそが、実は、仏陀の悟りの下地作りになったのではないか?っと愚考しています。
なぜなら、「修行」の「行」こそが、どんな行いより、「得心」させる可能性が高いと、私自身が、空手の修行から自得したからです。
端的に言えば、学問は、理解させます。
そして、修行は、得心させるのです。
これは、宗教でも、武道・武術でも同様だと思います。てっか、私確信しています。
私個人の持論ですが・・・。
修行が、そして修行のみが、意図的な脳の書き換えが可能である。からだと思っています。
そして仏陀は、自らの悟りの前に行った、6年間の難行苦行の修行において、脳の書き換えの準備が整っていたのではないか? っと愚考しています。
これ荒唐無稽、あるいは無茶苦茶な意見かもしれませんが・・・。、私・・・、自らの修行から省みて、そう思わざる得ないのです。
なお、開眼した仏陀は、その後ヒンズー教の聖地で、沐浴場のあるバラナシに近い、サールナートと言う場所でその布教を始めます。
ちなみに、このバラナシとサールナートは、私、二十代の初期に訪れて滞在しています。
0コメント