武士・松村の肩の上に乗る
以前、拙著の前書きか、後書きにも記したはずですが・・・。
物理の法則で有名なアイザック・ニュートンは、わたしが遠くを見渡せるのは、巨人の肩の上に乗っているからだ!
っという意味の言葉を書いています。
これは、科学において、偉大な足跡を残した故人たちの偉業の上にこそ、自分は事を成し得たっということなのでしょう。
私・・・。
今、予想もしていない程の光景が見えてきました。
それは、武術として伝承された沖縄空手の原型の一つである、中国清朝軍隊の漢人部隊における軍事教練の一つである、徒手格闘術の形(≒套路)の構成です。
どこの国でも、軍事教練なるものは、通常は大多数の兵隊が列を作ってやるものです。
ですから・・・。
進行する順序や順番が、余りにも複雑だと、上手な兵隊と、下手な兵隊が衝突してしまい、教練どころの騒ぎではありません。
もう支離滅裂っというか、滅茶苦茶になるのは、目に見えています。
その為に自ずから、集団で、チャンと進行できるシステムに、なっているはずなのです。
そのシステムは、陸で戦う陸軍なら、陸軍の・・・。
そして、水上の船の上で戦う海軍ならば、海軍の・・・。
各々の闘う場所に適して、システムを用いているとするのは当然です(当時、空軍無しね!)。
そのシステムは、清朝漢人部隊の水師(海軍)の軍事教練の形であろう、ナイファンチ(内帆船・南方拳)ならば、真横へ進む。
清朝満人八旗の部隊ならば、左を向いて前進(これは、明朝の軍隊の影響と思われる?)。これがいわゆる、「四方クーシャンクー」として残った形です。
そして、清朝漢人部隊(緑営)ならば、前を向かっての、すなわち前後の線上で、動作を行うっというものだったはずです。
これが9の倍数(例外あり)の名称を持つ、サンチン(三戦)から、スーパーリンペー(壱百零八歩)までの形などです。
さらに、その際の最初の一歩が、中国式と琉球(首里)式では、左右が異なっていたはずです。
これらの事柄が、武士・松村の名で伝承された、パッサイ(八十一戦)の、大・「中」・小の形を解明し・・・。
完全に体育・体操化された、糸洲安恒・師系列のパッサイの形と比較することで・・・。
新たなる地平線が、見えてきました。
ようやく武士・松村こと、松村宗昆の肩の上に、片足を掛けることが出来た心持です(松村先生、失礼!)。
ここまで来たので、振り落とされないように、必死でしがみついて、行けるとこまで、行ってみる心算です。←でも・・・、ヤッパリ、肩では無く、頭の上に乗ったら、
怒られるだろうなぁ~?!。
などと、おバカなことも思いつつ、あとは、伝えるだけです。
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武術としての沖縄空手の心身思想・操作、形、歴史を調べ尽くし、習得しました。
それだけのモノを、伝授出来る体系を作り上げた心算です。
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