サンチン(三戦)は形なのか?
松村宗昆が、唐手・佐久川が移入した中国、清朝軍の漢人部隊(緑営)の15の軍事教練の、徒手格闘術の単独套路(≒空手の形)の一つである、
「パッサイ(八十一戦)」の形(通常はパッサイ大とされるもの)を、自らが学んだ日本武道(主に剣術=示現流)の心身思想・操作で改変して、パッサイ(八十一戦)の「小」を創作しました。
日本(大和)と中国の心身思想・操作の、文字通りのハイブレッドである、
日本武道の一つである、武術としての沖縄空手の誕生です。
文字通り「武士・松村」こと松村宗昆は、首里手、沖縄手の祖であり、中国武術では無い、日本武道を沖縄で確立した人物だということでしょう。
それは、空手の祖であるということです。
さて、このような結論にたどり着くまでの筆者、新垣清自らの修行において気づいたことが二、三あります。
じつは驚かれるかもしれませんが、
パッサイ(八十一戦)の初動の操作は、
現在の新興・那覇手としても良い「剛柔流」や、
「上地流」の「サンチン(三戦)」っと同じ
だったはずです(驚愕! ですね?!、ただ開手で、掌の向きが違います)。
すなわち、相手に自分の襟首を両手で掴まれた時の、対処策です(「唐手・佐久川」が移入した15の形は、すべての初動は同じです)。
その「後(ゴ)の先(セン)」を、武士・松村は「先(セン)の先(セン)」に変えたのです。っと言うか、彼は変えれ得たのです(=天才です)。
それが通常の左足が後ろ交差から、前交差になった最大の理由です。
ここまでは、パッサイ(八十一戦)の事柄です・・・。
そして、筆者の中ではすでに解決済みの事柄です。
その事柄を明確にする過程で、これらの15の形のもっとも基本となる「サンチン(三戦)」の形における最大の疑問、あるいは存在意義が明確になりました。
すなわち、「サンチン(三戦)」とは形なのか?
あるいは、純粋に準備運動(だけ)なのか? っという、その存在意義への根源的な疑問に対する答えです。
この稿、続きます。
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