サンチン(三戦)は、サンチン(三戦)にあらず

 中国清王朝がまだ盛況であったころ、福建省の琉球館を清朝軍隊の漢人部隊(緑営)の把門(アーナン)、または把門官(アーナンクー)と称される護衛兵が警備していました。

 彼らの軍事教練における徒手格闘術では、15の単独套路(≒空手の形)を練習していました。

 1800年初頭に唐手・佐久川が、これらの15の形のすべてを琉球王国に移入しました。

 サンチン(三戦)の形から始まり、スーパーリンペー(壱百零八)で終わる15の形のシリーズです。

 パッサイの形もその一つで「八十一戦」と漢字表記されるはずで、サンチン(三戦)から数えて12番目の形となります。

 これらの形は、9の倍数です(この理由は8+1ということですが、これらの理由は煩雑になるので、本で出版できた時に記します)。

 例外は三(戦)、十三(戦)、そして二十四(戦)ですが、これの理由も省きます。

 すなわちパッサイ、バッサイ、抜塞、抜砦などと記され、○○のパッサイなどと頭に武人の名称や地域の名を記したこの形は、実は軍事教練の12番目の形であるということです。

 ちなみにわたくしの手元には、故金城裕師から送っていただいた「日本空手道連合会」のパッサイの小冊がありますが、そこには九つのパッサイが載っており、七つのパッサイの演武写真があります。

 しかし、すべて大同小異です。もともとは、一つの形であったろうという推察が成り立ちます。

 さてこのパッサイが12番目の形ならば、15の形の最初にあるサンチン(三戦)も形であるはずです。

 しかし・・・、この15の形の最初の三歩は、すべてサンチン(三戦)の最初の三歩と同様の動きであったはずですので・・・、

 案外サンチン(三戦)そのものは、形では無く、準備運動的なものではなかったのか? っという思いが、わたくしにはありました。

 なぜなら、余りにも単純な動きで始終するからです。

 ここで明確にしますが、本ブログで述べているサンチン(三戦)は、新興・那覇手の剛柔流や上地流のサンチン(三戦)ではありません。

 すなわち東恩納寛量師の弟子であった宮城長順師が、体育・体操化、あるいは一層の中国拳法化(?)を目指して改変した、サンチン(三戦)では無いのだ。っということは明らかにしておきます。上地流に関しては、割愛します。

 本ブログのそれは、唐手・佐久川が移入させた、サンチン(三戦)です。そして、その後に東恩納寛量師が、移入させた、開手のサンチン(三戦)です。

 さらに言えば、現在の呼吸法、いわゆる努責作用を使わないサンチン(三戦)です。加えれば、身体を固めることを強調しないサンチン(三戦)のことです。

 果たして筆者が述べている、開手で行われ、努責作用や身体を固めることの無い、     

 

 サンチン(三戦)は、形であるのか? 

 それとも、準備運動なのであろうか?

 その疑問への回答は、松村のパッサイ小の形を解明した時に、得ることができました。

 なぜなら、なぜ松村のパッサイの初動の左足が前交差であり、他のそれは後ろ交差であるのか? っということを理解するには、サンチン(三戦)の解明が必要だったからです。

国際沖縄空手道 無想会 International Okinawa Karate-do Muso-kai