パッサイ(八十一・戦)で唐手から空手への伝承が見えてきた
今回の日本縦断セミナーで、伝授・解説しているのが「パッサイ」の形です。
この形はもともとは1804年前後に唐手・佐久川が、清朝時代の中国福建省にあった琉球館の護衛(把門=アーナンっと発音します。=空手の形のアーナン、アナンコー、アナンクーの語源です)の兵隊たちが練習していた、15の軍事教練の一つで12番目の形です。
漢字表記は、八十一(戦)であるはずです。
この形を佐久川から数えて、三、四代目に当たるはずの「武士・松村」こと松村宗昆が、見事に沖縄化、琉球化して伝承しています。
それが祖堅方範に伝わった「パッサイ・小」の形であり、国際沖縄空手道・無想会の「パッサイの形」です。
でも、松村自体は「祖堅のパッサイ・大」っと呼ばれる形を学んだはずです。
そして、このパッサイ・大が当時の松村の世代の、パッサイの一般的な形です。
「泊のパッサイ」、「糸洲のパッサイ」、「松村のパッサイ」などと呼ばれる形なども、この松村が学んだパッサイと大同小異でしかありません。
ただ伝承の途中で意味が分からなくなって、誤解・曲解が生まれてきて、各流会派の形になっただけです。
そのために、これらのパッサイやパッサイ・大などの形は、コンテクストに沿って形を使った場合に、平仄の合わない部分が多々出てきます。
今回、大阪セミナーに参加した弟子たちには、もう前記のパッサイ、またはパッサイ・大などと呼ばれる形を検証した時に、間違い、欠落部分がチャンと指摘できるはずです。
ちなみに、沖縄同好会・代表氏のブログに、数種のパッサイが列挙されているので、興味のある方は、検証なさってみてください。形の名称「大」及び「小」とは
パッサイにおける謎の動作 ②(終) (10/20)
このパッサイ、パッサイ・大と、松村のパッサイ(すなわち祖堅のパッサイ・小)の違いと、推移を理解したことで、唐手・佐久川から松村宗昆への伝承の過程が明確になりました。
あとは、その推察を立証するための証拠・エビデンスを集めるだけです。
0コメント