調子良さと、修行の果ては違う
前回のブログで、会心の形が使えた! っと記しました。
すなわち、
自分は全速・全力で動いているのに・・・、形の中で時間が止まっており、周りがすべてスローモーションのようにはっきりっと見える、あの感覚です。
下手をすると、自分が形を使っているのを、自分で観える! っとさえも思ってしまう、あの感覚です。
でも・・・、誤解を為されると困るので、明確にしますが・・・。
これって、心身が(絶)好調の時の感覚でしかないんですよ。
すなわち、乗っている時の感覚(だけ)です。
ここからは、特に弊会の弟子たちの為に記しますが・・・。
ホントウに形と自分が一体となった時には、感覚は「無」です。文字通り、ゼロ(零)なのです。この時は、心身の好・不調などは、あまり関係の無いハナシです。
わたくしは、自分の身体が壊れるほどにナイファンチの形をやった心算です。身体だけでは無く、心の方も壊れる寸前までナイファンチを遣り込みました。
ナイファンチの極意を掴むまでに、5年ほど遣りましたが・・・。それ以上遣らなければならないならば・・・。今の自分は、この世には存在していないはずです。
それほど、遣りましたし、自分を追い込みました。
その修行において、本当に形が使えた瞬間というものは・・・。礼をして、礼で終わっているだけでした。
すなわち、形の始めに礼をして、形の終わりに礼をします。自分の感覚で残っているのは、その動作だけなのです。
剣術に「今という、今は、無かりけり、まの時くれば、いの時は去る」っという、有名な言葉があります。
人間は、「今」と言う状態を認識することは不可能です。「今」と感じた瞬間は、すでに「今」は過去のものとなっています。
あるは、「今」から「今」が来る! っという未来形でしか、人間は「今」を捉えることは出来ません。
すなわち「今」とは、「過去」と「未来」の間にある概念でしか無いのです。
我が無想会空手道の言う、「正中線」の概念である・・・。
前でも、後ろでも無い線。右でも、左でも無い線。すなわち、前と後ろの間にある線。右と左の間にある線。それが、「正中線」であるという概念と同じものです。
まあ、これが「善の研究」で有名な、西田幾多郎師のいう、日本文化の特徴である「絶対矛盾的自己同一」だと、わたくしは、勝手に解釈しています。
すなわち、わたくし流に言いますと、「相対」があるからこそ、「絶対」があるということです。「絶対」とは、「相対」の間にあるものでしかない! っと、言葉を代えても良いでしょう。
では「過去」と「未来」の間にしか無い、「今」を心身が一瞬にしろ認知し得た場合、一体何が起こるか。
それは、「無」の感覚です。
肉体と、それを司る脳の動きが完璧に近いほどに一体化した場合には、「過去」と「未来」の時間差における、「今」の認知では無く・・・。
「今・現在」において、脳が反応しなければ為らないために、脳の働きが「無」と言う言葉でしか表せない状態となります。
すなわち、「過去」と「未来」での時間差でのみ、「今・現在」と言う認識を持っていた脳が・・・。
その心身(いわゆる肉体と脳)の時間差が無いために、「過去」と「未来」と言う「時間」そのものが存在せず、「無」っという言葉でしか表せない存在を認識(?)します。
かつ時間差によって(のみ)認識していた「自己」、あるいは「我」っというものが消滅してしまい、いわゆる「無我」の境地というものになります。
この「無我」というものは、形の修行の場合には、形と自分という彼我の関係が消滅してしまい、彼我同一ということになってしまうのです。
まあ、ここにも絶対矛盾的自己同一の概念が、生じているのかもしれません。
すると、最初の礼の後で形を行っていた時間が、自分の中では存在せず、形の終わった際の礼の時間が(突然のように)出てくるのです。
すなわち「礼・形・礼」っというカタチが、「礼・礼」っという、非常に奇妙なものとして自分の中に存在することになります。
感覚としては、「嗚呼~、自分は今、形を遣り終えたのだな!?」っという、過去を振り返るだけのモノとなりなります。これは、達成感や虚無感などというものとは、全く違う感覚です。
実際の感覚として、「時間が無くなった」。あるいは、「時間を失った!」っとさえ感じる瞬間です。
わたくしは、アメリカの弟子たちに「悟り」とは過去形。あるいは過去完了形でのみ存在し、「現在進行形」では存在しない! っと言っているのは、この現象のことを言っているのです。
すなわち「あなたは、悟った!」。あるいは、「わたしは、悟った!」と過去、過去完了形として言えるとしても・・・・。
「あなたは、(今)悟っている(状態だ)!」。あるいは、「わたしは、(今)悟っている(状態だ)!」っという、現在進行形は存在しない。っということです。
わたくしは、武才の乏しい自分の心身の極限まで空手の形。すなわち、「ナイファンチの形」の修行を遣った心算ですが・・・。
残念ながら・・・、「礼・礼」の感覚で形を使えたのは、片手の指で数えられるほどの回数しかありませんでした。
いま心身共に下り坂の自分にとっては、再現することは至難の業だとも思っています。
しかし、空手の形の修行の過程で、このような心身の状態が生まれてくるのは確かなことですし・・・。わたくし如きに出来たならば、誰でも出来ることだと思っています。
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