泊手は、怖いので。まずは、佐久川のサンチンの初動から。

 前回のブログで、泊手の七つの形に関して、わたくしの推察があまりにもピッタリコンで、辻褄が合いすぎていて、「怖い!」 っと、記しました。

 ここまで辻褄が合いすぎると、却って不自然、あるいは作為、人工的であるとさえ思ってくるので・・・。

 今回は、その泊手への恐怖から逃げる意味でも、首里手・那覇手(って言っても元は一緒)の事柄に関して記します。

 まず・・・(っと、少し泊手のショックから心を落ち着かせてっと!)・・・。

 1804年前後に、「唐手・佐久川(だと思う!?)」が移入させた清朝漢人部隊(緑営)の15の軍事教練の形は、すべて同じ動作から形が始まります。15の形一覧表

 相手から襟首を掴まれた状態を、如何にして外して、自分の攻撃を相手に加えて、相手を無力化するかです。

 その最初の動作が、15の形の最初の形である、サンチン(三戦)の形の大部分を占めるものです。ですから、驚かれるでしょうが(そして、書くのに勇気がいりますが)・・・。

ウーセイシ、パッサイなどの形も、

最初の動作は、サンチンと同じ動作だったのですよ!

 しかし、同じサンチンでも・・・(まあ、これも問題意見となるでしょうが、泊手の恐怖と比べれば、ドウって事ない!!)、

 現在のサンチン(三戦)の形は、佐久川の移入した15の形の最初の形である、サンチンの形とは微妙に違います。

 まず、ここで明確にしますがね・・・、現在の新興・那覇手と呼称しても良い、「剛柔流」と、その系列にある流会派のサンチン(三戦)は、努責作用を行います。

 この動作は、佐久川の移入させたサンチン(三戦)にはありません。

 って言うか、これは剛柔流の創始者である宮城長順・師が、後に中国から移入したものです。

 

 宮城師の師匠であった東恩納寛量・師が、中国福建省にあった蔡道場(湖城道場)で学んだサンチン(三戦)の形にも、存在しません。この東恩納・師のサンチンの形は、佐久川から100年ほど後です。

 蔡道場は、もともとは軍事教練として、琉球館を護衛したいた緑営の兵士(把門=アーナン)たちが残していった、15の形のうち、のちのちには4個ほどを、保存・伝承していた形跡があります。

 サンチン(三戦)、セイサン(十三)、サンセール―(三十六)、そしてスーパーリンペー(壱百零八)の四つです。

 これが東恩納・師が移入させた四つであり、このうちの三つを上地完文師も移入させています(なお、上地師はスーパーリンペー(壱百零八)の一部は、移入させた形跡もあります)。

 十五の形のうちの、四つは蔡道場に残っていました。そして、後の十一の形は、歴史の面白さとして、ナンと沖縄に残っていたのです(ヤッター!)。

 さらにこれは、蔡道場でのサンチンが、軍事教練のそれとは、すでに変わってしまったのか? どうか? は疑問の余地がありますが・・・。 

 軍事教練として琉球館で行われて、「唐手・佐久川」が移入したサンチンの最初の動きは、現在の剛柔流や上地流のサンチン(三戦)とは異なり、斜め横に、一歩進める動きでは無く。

 真横に、一歩足を開く動作であった。

 はずなのです。

 なぜか?

 そうでなければ・・・、相手が自分の襟首を掴んで来た時に対処する、最善の方法とは為れないからです(文責・筆者)。

 国際沖縄空手道・無想会の弟子ならば、すぐお判りでしょうが・・・。

 「ローハイ(羅漢)の形」、あるいは「王師の形(ワンカン【王武官】、ワンドー【王套路】、ワンシュー【王師父】)」の形の最初の動きと、まったくと言って良いほどに同じ動作なのです。

 思うに、当時の清朝の漢人部隊(緑営)は、その軍事教練の形の初動を、大体は同じシチュエーション(状況)に対処するため! っとなっていたかもしれません。最初の襟首を掴まれたのを対処した後からは、各々違ってきますけどね!

 ここで・・、「こんな推察は、お前(新垣清)の勝手な推察にしか過ぎない!」、

「証拠は、あるのか?」っとの、当然な疑問が沸いてくるはずですが・・・。

 当然のごとく、揃えた足を真横に開いて始まるサンチン(三戦)の形は、沖縄古来の古い流会派の中には、残っているのですよ!