泊手は傍において、三つのサンチンから
余りにもわたくしの推察がピッタンコになりすぎて(?)、「怖い!」、 「怖い!」と言っている泊手ですので・・・。ここしばらくは、泊手はオフとして(まあ、水面下においては、激しく動いていますが・・・)。
沖縄における、三つのサンチンなどに関して、記していきます。大分私見が入りますが、ご了承ください。
現在の沖縄空手には三つ、あるいは三種類の、「サンチンの形」が存在します。
一つは、1804年前後の琉球王国時代に清朝漢人部隊の「緑営」が、琉球館を警備していた時に行われていたサンチンです。
これは「唐手・佐久川」が移入したもので、国家から国家への正式な移入過程です。
次は百年弱ほどたって、琉球館が廃止されて、「緑営」の護衛兵である把門(アーナン)たちも去った後で、琉球館の近くで運営されていたとされる、湖城家の蔡道場で伝承されたものを移入したものです。当時残っていた、四つの形の一つが「サンチンの形」だったのでしょう。
これは国家から国家の人間の伝承では無く、軍事教練が民間に流れて世俗拳法となったものを、東恩納寛量師が沖縄へ移入しました。
そのしばらく後に、同じく蔡道場の世俗拳法のサンチンを、上地完文師が再び沖縄に移入しています。この二つのサンチンは、民間から民間への流れです。
都合、三つのサンチンです(まあ、メージャーな流れとしてね!)。
唐手・佐久川が軍事教練としての15の形のうちの、最初の形である「サンチンの形」を学んだ際には、形の中に当然のごとく存在する「コンテクスト(形の文脈)」をも学んでいます。または、「コンテクスト」の存在の認知が明確です。
これは「サンチンの形」だけでは無く、一覧表に挙げた15の形すべてに、「コンテクスト(形の文脈)」は存在します。15の形一覧表
すなわち形には、「コンテクスト(文脈)」があり、それに沿って業・技を行っていくのだ! っという、言ってみれば当然のことを学んでいるのです。
軍事教練とは、軍事、または軍事学、すなわち戦争の科学、あるいは戦争の学問から導きだされた身体操作です。摩訶不思議、あるいは意味不明な動作や操作が入る余地はありません。
そのような摩訶不思議、あるいは意味不明なことをやっている軍隊は、戦争に敗れてしまいます。
しかし少なくとも、佐久川の時代である1800年初頭までの中国清朝漢人部隊である「緑営」は、その当時における軍事の合理性を保持していたのです。
しかし、ここで文責を筆者・新垣清と明記して記しますが・・・。
それらの軍事教練が時代を経て民間に流れて、世俗拳法になった時点で、形の中に当然のごとく存在するであろう「コンテクスト(形の文脈)」の存在が、完全に失われた可能性が極めて高いのです。
これは琉球館の軍事教練から、世俗拳法の蔡家拳法へ移行する際だけでは無く・・・。
現在の中国拳法といわれる武術の各流会派においても、もともとは軍事教練であったのが・・・。
民間に流れて、仏教、道教、秘密結社の思想などが挿入されて、世俗拳法となったと思っています。
さらにその時点で、本来は存在していたはずである「コンテクスト」が忘れらてしまって、意味を為さなくなってしまったのではないか?! っという、非常に強い疑問を持っています。
中国拳法の総本山の趣きのある、「少林寺」の拳法においても、その発祥当時は、軍事教練からの流れであるとも思っています。
そして、世俗拳法である「少林拳」などとなることで、「コンテクスト」の存在認識が希薄になり、現在では消滅してしまったとも思っています。
これは「太極拳」などでも、同様な歴史的推移をたどったと思っています。
上記の事柄と関連しますが、筆者は拙著「沖縄空手道の歴史」を記す際に、中国の明朝軍、清朝軍、並びに倭寇、対倭寇、義和団、そして太平天国軍などの事柄を詳しく調べた心算です。
特にわたくしは、一時期は集めた史料・資料を基にして「『義和団の乱』の事に関して、小説で記してみようか?!」 っという思いもありましたので・・・。
柴五郎(それに関連して、柴四朗や、「朝鮮の乙末事変」なども割と詳しく調べました)の事柄に関して、そして当時の西欧列強の強権的態度など、詳しく調べました。
その時に導き出した結論が、わたくしが、中国文明に対して多大なる尊敬の念を持つと同時に、「アジア的停滞」の危険性を、常に孕んでいる危険性を持つ文明であると、危惧する所以でもあるのです。
なにはともあれ・・・、現在の沖縄空手には、上記の三師による「三つのサンチンの形」が存在し、軍事教練の形である唐手・佐久川のサンチンには「コンテクストの存在」が明確です。
そして、世俗拳法の蔡家拳法のサンチンである東恩納、上地系統には「コンテクストの存在」は皆無、あるいは希薄であるとしても間違いは無いと思っています。
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