「セイパイの形」について

 サンチン、「九法(サイファー)」、「十三歩(セイサンボ)」について記したので、次は「セイパイ」の形についてです

 この形は唐手・佐久川が移入した、15の形の4番目にあたる形です。

 漢字表記では、「十八戦」です。「九十戦(ソーチン)」が、この形の「対」になります。18+90=108ですね!

 現在の「十八戦(セイパイチン)」の形は、最初に右手を貫手、あるいは手刀にして前に突き出す動作から始まっており、

 「一体、これは、ナンじゃらほい?!」

 っという、塩梅になってしまっています。

 なぜか?

 それは、最初の相手から襟首を掴まれて、サンチンの動作で外して、その後に相手の首筋に喉輪を入れて、反対側の腕で相手の頭を捻り、首を折るという動作が完全に抜け落ちてしまったからです。

 上記の業・技の形骸は、様式として自分の左右の手で握手(?)して、両腕を捻るという動作になって残っています。

 抜け落ちている、と記しましたが・・・。

 これは、ある意味正しい言い方では無く、案外意図的に上記の動作を削除した可能性もあります。

 なぜなら、上記のオリジナルな形の動作である、相手に自分の襟首を掴まれた後から業・技を始めるということを、首里の武士たちは「良し!」っとしなかったからです。

 それでは、「後の先」になってしまうからです。

 「ならば・・・、完全に首里化した『八十一戦(パッサイ)』のように、『先の先』を行く業・技に変革すればよかったはずなのに・・・?!。」 

 っと、わたくしなどは思ってしまいますが、それを果たせないままに、近代を迎えてしまったのでしょう・・・。

 現在の新興・那覇手である、剛柔流系統の体系にある形となっています。が・・、これは、どのような経路で宮城長順師が取り入れたのは、謎です。

 案外、彼らが創設した「唐手倶楽部」で、沖縄各地に散らばっていたであろう「唐手・佐久川」の十五の形を収集したのではないか?! っと、わたくしは推察しています。

 さらに、宮城長順師の朋友である「糸東流」を創設された、摩文仁賢和師が、「セイパイの研究」という本を出版しています。

 そして、セイパイは何時のころからか「十八」と漢字表記もされていますので、唐手・佐久川以後にも、沖縄武士の誰かが移入した可能性が高いです。

 なぜなら、1804年前後に唐手・佐久川の移入した15の形は、仮名表記で伝えられた可能性が高いからです。

 じつは、当時の琉球王国内において、王府関係(政府関係)の文書、すなわち正式・公式文書はすべて平仮名表記なんですよ・・!

 ですから唐手・佐久川が15の形を指導した当時は、正式・公式、あるいは準正式・公式の扱いを受けていたのではないか?! っと筆者は愚考しています(まあ、希望的観測もありますが・・・)。