「ニセーシ」と、「二十四歩」の形

 「十八戦(セーパイチン)」は9X2=18で、「九十戦(ソーチン)」すなわち9X10=90の形が相対になる! っと記しました。

 「唐手・佐久川」が移入したのが・・・、1804年前後に清朝漢人部隊である緑営が守っていた、福建省の琉球館で把門・把門官(アーナン、アーナンクー、アーナンコー=護衛兵、護衛官)たちの軍事教練の、15の形です。

 それらは9の倍数における数を使って、体系立てられています。

 9XN(Nは1,2,3などの自然数)ということです。それが9X12=108まで続きます。

 そしてこの数の体系には、13、24の例外が存在しましす。

 その例外の一つが本ブログで記す24の数で表される「ニセーシ」、そして「二十四歩」の形です。

 この例外は何故生まれたのか?

 この事柄に関しては、ウキペディアの「二十四節気」を参照にしてください。

 もう本ブログを読まれている読者には、カタカナ表記と漢字表記の二種類を記した意図が、お判りになると思います。

 「ニセーシ」と記された形は、「唐手・佐久川」が移入したもの、あるいは、それが伝承された形です。

 または時期的に、1800-1840年ごろまでの琉球王国の王府の公式・正式、あるいは準公式・正式の軍事教練の可能性があった形だ。っとしても良いでしょう。

 わたくしが「古流・那覇手」と分類している、久茂地(くもじ)村の国吉真吉(1848-1926)が、同じく那覇市の泉崎で居住して崎山筑登之親雲上喜徳(さきやま・ちくとのぺーちん・きとく、1821-1904)から学んだのが、この「ニーセシ」の形です。

 崎山は中国人の「アソン」から学んだとなっていますが、この「アソン」なる呼称は個人名では無く、「把総」と漢字表記される、上記の把門、あるいは把門官の指揮官のことです。

 

 じつは「アソン」、「イワ―」、「スイソウ」などの名称を(中国人武術家の)個人名として理解したことから、空手の歴史に多大なる誤解・曲解が生まれてきたのです。

 そして、拙著「沖縄空手道の歴史」でも、その辺りの事柄は明確にされておらず、そのために沖縄、日本本土の事柄は詳細を極めた心算ですが・・・。中国関連の事柄は、非常に大雑多に終わってしまった感があります。

 時代から見るに、「唐手・佐久川」の「ニセーシ」がすでに沖縄には存在していたはずであり、その後に多重的に移入された可能性があります。

 いずれにしろこれが「ニセーシ」、あるいは「にせいし」と仮名表記される形でしょう。