漢字表記の「二十四歩(にじゅうしほ)」の形
本ブログでは唐手・佐久川の移入した15の形の、仮名表記と漢字表記の違いを説明しています。
もうブログをフォローされている読者の方々には、「漢字表記のある形と、仮名表記(のみ)の形がなぜ存在するのか?」 が、ご理解できたと思います。
このような書き方は、上から目線でイヤなのですが・・・。
人が、他の人に何かを伝承しよう! あるいは、それに基づいて教育しよう! っという目的がある場合には、それは必ずと言って良いほどに「体系」つける行為が生まれます。
なぜなら・・・? それが、一番効率が良いからです。
ただ、武術として伝承された沖縄空手、さらに遡って中国拳法の形や套路の場合には、その体系つけられた事柄の原理・原則が消失してしまったのです。
空手の心身思想・操作だけでは無く、その歴史まで、シッチャカ・メッチャカで、一体ナニがナンだか、皆目見当がつかない! っと言う現象(それは、中国拳法も一緒!)は、その原理・原則を理解する術を失ってしまったからです。
なぜか?
それを解くことが、「アジア的停滞」、または「アジア的混沌」の原因を解くことになると思いますし・・。筆者は、必死でそれにいま・現在向き合っている心算です。
しかし本ブログの読者にはもうお分かりのように、佐久川の移入した15の形は、数の体系で出来ており、それは中華思想における数の意味をすべて網羅しています。
今回の「二十四歩」においても、佐久川が移入した当時、あるいはその少し後までは、「ニセーシ」、あるいは「にせいし」などと仮名表記されて伝承されたはずです。
なぜか?
それは、琉球王国時代の公式文書は、すべて仮名表記だからです。
ですから・・・。
唐手・佐久川が移入した15の清朝漢人部隊、すなわち「緑営」の軍事教練を琉球王国は一時的にしろ、正式、あるいし準正式な自らの軍事教練として採用した。あるいは、採用しようと試みた。可能性もあるのです。
その伝承が、なぜ、永続しなかったのか? なぜ、変革されたのか?
この答えは、もう皆さまも推察できるでしょうが・・・。
筆者・新垣清には出ている! っと思っています。ただここでは長くなってしまうので、割愛しますね!
いずれにしろ、佐久川から50年ほど後に中国に渡ってであろう「猫・新垣」こと、新垣世璋(あらかき・せしょう、1840-1904)が再度、琉球王国に移入させます。
大雑把に言いますが・・・。
この「猫・新垣」までの時代が、清国の正式な軍事教練が国家公務員である「緑営」の軍人から、琉球王国の国家公務員であった沖縄の武士たちに伝承された体系だったと思います(っと言っても、【受け取る側にあたる】新垣が公式であったのか? っということは、僅かながら疑問も生じますが・・・)。
その新垣の移入した、漢字表記の「二十四歩」が、現在の「二十四歩(にじゅうしほ)」の形です・・・。
っと言いたいところですが、少なくとも名称においては、もう「ニセーシ」も、「二十四歩」もゴチャゴチャになって伝承されていると筆者は思っています(出た! アジア的混沌)。
0コメント