「雲手」の形とは?
「雲手」、あるいは「ウンス―」と呼ばれる形は、「唐手・佐久川」が移入した15の形のうちの六番目にあたる形です。
移入された当時は、「二十七戦」っと漢字表記されたはずですが・・・。
その後に、琉球王国の軍事教練となった? あるいは国家の正式、または準正式な事柄となったためか?!
仮名表記で「ニセーチ」、あるいは「にせいち」っと、呼称されるようになったはずです。
これが、「本部の猿」こと本部朝基の兄である、本部朝勇が伝承した「本部のウンス―」です。
この形を「唐手・佐久川」から遅れること50年ほど・・・、
「猫・新垣」こと、新垣世璋が再び移入します。小林流の比嘉裕直師の道場で、伝承された「ウンス―」がそれです。
そして「二十四」の「ニセーシ」と、「二十七」の「ニセーチ」は、発音がほとんど同じ紛らわしいことこの上ないのです。
それらの理由から、この「ニセーチ」は「雲手」と記され、「ウンス―」と呼ばれるのが定着したのでしょう。
じつは非常に煩雑になりますが、以下の文を、後学の方々のためにここに一応記しておきます。
ただ書き飛ばしていますので、一部間違いなどが生じるかもしれませんが、それは後程ご自分で確認してください。本にする時には、その部分もチャンとします。
琉球新報紙上においては、新垣は「舞手」を披露したとされています。
さらに宮城篤正著の「空手の歴史」55ページに空手の形(五十音順)っというものがあって六十一番まであり、その中の四番目に「ウンス―(雲手)」、そして五、「ウンピン(雲平)」、さらに六、「ウヌイブー」っとの記述があります。
この六番目の「ウヌイブー」には漢字表記がありませんが・・・。本来ならば漢字表記で、「雲歩」となるはずです。(文責・新垣)
すなわち「猫・新垣」が移入したとされる三つの形は「ウンス―」、「ソーチン」、そして「二十四歩」とされていますが、それがそれぞれ「雲」の漢字で表されることとなり、
「二十七戦(ニセーチチン)」が、「雲手(ウンスー)」。
「九十戦(ソーチン)」が、「雲平(ウンピン)」。
そして、「二十四歩(ニセーシブ)」が、「雲歩(ウヌイブー)」っとなるはずです。
さてここからが、非常に興味深いこととなります。
上記した新聞紙上での「舞手」が、「雲手」と記されるには、「舞=ヴ」が「雲=ウ」っとなった可能性もあります。
では、なぜ「猫・新垣」こと、新垣世璋の移入した形に「雲(ウ、ウン)」の漢字表記があてられるのか?
「雲」っというのは、中国人武術家の姓なのでしょうか?
イヤ! その可能性は否定できませんが・・・、
じつは、この「雲」の字は、当て字ではないか? っと、筆者・新垣清は推察しています。
さらに「ヴ」や「ウ」の発音は、漢字の「武」にも通じるのです。
すなわち、
「二十七戦」=「ニセーチチン」=「雲手」=「武手」=「ブシュ」=「武師父」。
続いて、
「九十戦」=「ソーチン」=「雲平」=「ヴピン」=「武兵」。
そして、
「二十四歩」=「ニセーシチン」=「雲歩」=「武歩」
と言うことです。
さらに記せば、これらの「雲」(そして「武」)の漢字表記は、近代に入って沖縄で行われた可能性が高いと思っています。
なぜなら、漢字表記で記することが可能でも、中国人には意味の通じ無い、あるい通常は中国人がは使用しない方法だからです。
しかし、これらはまだ、推測の域を出ない段階です。
さらに記せば、筆者・新垣清は、「空手の歴史」に記入されている形の九割ほどは、すでに漢字表記まで探しあて、その歴史的、技術的背景もすべて解明した心算です。
残りの一割は、読者の方々(特に若い空手家)に解明して頂きたいと、望んでいます。
その際に老婆心として記しますが・・・、全ては体系立って考えられ、体系立って伝えられようとしているのです。
それを伝承する際に、根本原理が忘れられてしまい、まるで意味を為さなくなってしまったのにすぎません(いわゆる「アジア的停滞」、「アジア的混沌」です)。
ですから現象などに振り回されずに、原理・原則を模索してください。
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