秘せずして、木を植える
有名な世阿弥の言葉に「秘すれば、花なり」っというものがあります。
そしてその後に、「秘せずば花なるべからず」っという言葉が続きます。
能楽だけでは無く、すべての芸事において重要視されている言葉で、「花の美しさはその秘めたところにある!」っという意味で捉えられています。
直截的に言ってしまえば・・・、秘さなければ、花の美しさは出てこない。っという意味でもあります。
そして、あのロシアの生んだ天才作家のドストエフスキーも「世界を救うものは、美だ」との有名な言葉を、その著書「白痴」の中の登場人物に言わしてもいます。
無骨、無神経を、絵に描いたようなわたくしですが・・・。じつはこのドストエフスキーの言葉が好きで、若いころは引用させてもらいました。まあ、美とは一番程遠い場所にいる者だけに、余計に憧れていたのでしょう!?
「美は、秘するからこそ、自ずと出てくるものだ!」っとは画家、彫刻家、作家、音楽家、そして料理家などすべて目、耳、鼻、口などの感覚を鋭敏に刺激して、美を伝える人間にとっては、不可欠な思いなのでしょう。
そして、確かに美のみこそが・・・、世界を救えるのだ! とも言えるでしょう。
しかしながら・・・、あえて、しかしながら・・・、っと記させていただきますが。
ドイツの歴史哲学者のヘーゲルの言う、「アジア的停滞」、そしてわたくしの言う「アジア的混沌」を、武道・武術というものに当てはめた場合に・・・。
この身体感覚(のみ)、あるいは五感(または六感?)によって(のみ)での、次世代への伝承ということが、アジア的「停滞」、「混沌」を生み出したのではないか?
っという、大きな疑問を常に抱いています。
美は、それを感じさせれば良い(だけ)!、武は、相手を倒せればその用は足せる! っということは重々承知しています。
しかし、それではその感じを、相手に伝えることの出来た人間だけ・・・。あるいは、すべての相手を倒した最強の人間だけの・・・、非常に狭い、限られた文化にしかなれないのではないか? と、わたくのような無学浅才の人間は思ってしまうのです。
それは以前の、このブログで記した「盆栽では無く、植林なのだ!」の主題でもありました。
しかし、この上記の限られた人間たちの才能、あるいは技能を、他の人々に伝えようとしたところで、東洋、あるいは中国文化圏内においては的確、あるいは効果的な伝承の方法を、確立することが出来なかったのです。
その最大の理由は、「伝承の過程における、検証ということが為されなかった!」 あるいは、「検証を為す方法論を、確立できなかった!」 ということなのでしょう(これに関しては、何時かチャンと記します)。
そのために、東洋武道・武術がある種の「カーゴ・カルト」のような形式でのみ、次世代に受け継がれて行ったということだと思います(文責・筆者)。
極論になりますが・・・、わたくし・新垣清は、自らの修行過程において、そしてその修行の結果において創立した、国際沖縄空手道・無想会において、「空手を、花にするのを止めよう」。あるいは「花として見ることを、止めよう」と決心した時期があります。
では、無想会・空手とは、花では無く、ナンであるのか? 上記のブログ題でもしめしたように、「それは、樹木である!」っと思っています。
自分と言う樹、あるいは己の空手という樹を植えることで、山を形成し、山が河を育て、そして河が海を豊かにするように・・・。そこに樹木である自分と、自分の空手が存在したことの価値がるのだ! っということでことす。
そこに、前回のブログで記したように「納得して終えることの出来る空手」の本質があるのかもしれません。
本ブログの最後に、世阿弥の句と対比するようなカタチで、わたくしの好きな、ルターの有名な言葉を記します。
Wenn ich wüsste, dass morgen die Welt unterginge, würde ich heute noch ein Apfelbäumchen pflanzen.
「たとえ明日、世界が滅亡しようとも、今日私はリンゴの木を植える。」
畢竟、人が生きるということは、それだけのものであるのでしょう。
そして、それこそが「美」なのかもしれません?!
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