三十六(サンセールー、サンダーリュー)の形
「雲手」、「ウンスー」と呼称される「二十七戦」、「にせいちちん」、「ニセーチチン」のことを記してきました。
9X3=27の二十七戦ですが、これは15の形のうちの、6番目にあたるものです。
本ブログでは、9X4=36の新興・那覇手である剛柔流で「サンセール―」、上地流で「サンダーリュー」などっと呼ばれた形に関して記します。
中国清朝漢人部隊・緑営の、軍事教練の15の形のうちの、7番目にあたる形です。
新興・那覇手の剛柔流の「サンセール―」は、唐手・佐久川の100年前後に、東恩納寛量師が移入したものです。そして、その後に上地流の上地完文師が「サンダーリュー」を移入します。
両者とも福建省の琉球館(当時は、すでに廃止)の近くにあったとされる、湖城家の蔡道場で学んだ形を移入させています。
前後の事柄を調べてのわたくしの感想ですが・・・、思うに蔡道場には15あった清朝漢人部隊・緑営の形のうち、三戦(サンチン)、十三歩(セイサン)、この三十六戦(サンセール―、サンダーリュ―)、そして壱百零八歩(スーパーリンペー)の四つが残って指導されていたはずです。
しかし、この蔡道場での形は、琉球館が存在していた時期の軍事教練とは、やや異なっていた可能性があると、わたくし・新垣清は愚考しています。
それは当時の福建省で流行した、鶴拳の影響を受けた形として、変形されていたのではないか? っという想いです。
すなわち国家の正式軍事教練が、民間に流れて雑多な思想を取り入れて、世俗拳法になったケースです。鶴拳は、この軍事教練としての形・套路に、鶴の動きを取り入れたものです。
ですから・・・、1804年前後に唐手・佐久川が移入した「三十六戦(さんせいりゅ、サンセール―)」とは、やや異なる形態であったはずです。
その最大の特徴というか・・・、 わたくしの疑問は、
軍事教練としての「サンチン」と、
鶴拳の影響を受けたであろう「三戦」は、
その立ち方において、違いがあったのではないか?
っということです。ヒョットして、漢字表記にも違いがあった可能性も、否定できないのです。
しかし、この疑問は本ブログでは記していきません。
本ブログでは、近代に入って世俗拳法の「三十六戦(サンセール―、サンダーリュ―)」は移入された後に、現在の剛柔流、上地流で伝承されているが・・・。
1804年前後に唐手・佐久川が移入した、「三十六戦(さんせいりゅ、サンセール―)」は、沖縄の空手界に伝承されて現存しているのか?
っを記していきます。
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