「いの一番」の形
前回のブログで 松村の形は、
使えません!
っと、記しました。
では、なぜ、「松村の形は、使えない!」のか?
答は、簡単です。
松村の手では、一瞬で、自分を襲ってきた相手。または、自分が守らなければならない人間を襲ってくる相手を、殺傷してしまうからです。
平和な現在、あるいは襲ってくる相手の存在などが無い・・・、現代においての武道などで基準とされている。あるいは、求められている、護身術や逮捕術などというものとは、まったくその趣きを異としているっというか・・・。
真逆に、近いものです。
端的に言ってしまえば、存在意義がまったく違っているのです。
松村宗昆とは、琉球国王三代に、近習として仕えたという口碑の残っている人物です。若いころから武術(主に日本剣術)に優れ、生前から「武士・松村」との偉称を得るほどの人物です。
さらに中国に渡った時も、彼の地で武術(剣術でしょう)の師匠の待遇を受けたとも、される人間です。
さらに彼の職務である近習とは、王の側に控えて、その身辺のすべてを仕切る人間でもありますが・・・。
それと同時に、自らの身を犠牲にしても、国王を守らなければならない職務でもあります。
自分の職務を全うしなければ、王の命に危険が及ぶどころか・・・。王国時代が崩壊する危険さえある、重職なのです。
松村の手、首里手、そして沖縄手には日本武道の特徴とする・・・。っというか世界的規模において唯一、絶対と言うほどに、「重力による自由落下」の明確な存在認識と、その活用方法があります。
さらに正中線、演武線の明確な存在認識と、その活用方法などがありますが、本ブログでは、これらの詳細は割愛します。ご興味のある方は、拙著「沖縄武道空手の極意」シリーズを参照してください。
更なる特徴とは・・・、あるいは松村独自の特徴とは・・・。
自分と対峙する相手に対する業・技は、すべて自分の前方で行う。さらに、自分の後ろに相手を置かない。
などなど、松村の職務から必然とされたものであろう、戦闘思想が存在します。
さらに、「今と言う、いまは無かりけり、『ま』の時くれば、『い』の時は去る」
っという武道の歌、すなわち道歌がありますが・・・。
「武士・松村」の形、すなわち松村の手、首里手、沖縄手とは、この「いまの『い』の時に、全てを終わらせてしまう」技術なのです。
言うなれば、「いの一番」の業・技であり、二番は無い。あるいは、必要無いのです。
思うに、日本剣術の「二の太刀いらず!」っと、同じ思想なのでしょう!
「刹那の間」という、一秒の七十五分の一とまでされる時間の間に、相手に業・技を極めるということです。
それが、松村の「神速」っということです。
今回、松村の「五十四歩(ごじゅうしほ)」の形を完全解明した直後に思ったことは、「これは、使えない!」。「これは、(余りにも)危険すぎる!」ということです。
松村の手、特にこの「五十四歩(ごじゅうしほ)」の形では、出した瞬間に業・技が極まってしまい、相手を殺傷させてしまっています。
刹那の操作の基準で言うことならば、「ナイファンチ(内帆船、南方拳)」の形と、同格にあるかと愚考します。「パッサイ(八十一戦)」より早い、速いです。
松村ほどの心身能力を持たない限り、この業・技は途中で止めることは、
不可能です!
すなわち、通常のわれわれの技能では、これほどまでに研ぎ澄まされた、
早い・速い・疾い動作で、構成がなされている業・技
ならば・・・、
一度鞘を離れた剣は、相手を瞬時に斬る以外に無いのです。
ってか、瞬時に斬ってしまうのです。
それが松村の手の怖さであり、琉球王国時代において沖縄全域の武士たち全員が、そして中国において中国人武術家たちが畏怖した・・・、松村の凄さ! なのでしょう。
今(いま)の「い」で、業・技が完結してしまえば、「ま」の時は来ません。
「今のいで、技終えるなら、いの時ありて、まの時は来ず」
っと、下手な道歌も出てくる可能性のあるほどに、「刹那の間」なのです。
極論になりますが・・・。
さらに、忸怩たる自省を込めて記しますが・・・。誠に残念ながら・・・、現代のわれわれが遣っている、武道における「いま」の認識などは、
松村の時代、あるいは松村の才能、職務から見れば、「いま~、チョット、手が空いて無いから、後にしてね?!」
っとまでの、悠長なものなのかもしれません。
この稿続きます。「四十五戦(セイエンチン)」の解説は、いま、手が空いてないので、ズ~っと後?
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