「四十五戦(セイウンチン)」の形
完全解明を果たした「五十四歩(ごじゅうしほ)」の形の余韻で、ここ4、5回のブログでは、「武士・松村」こと、松村宗昆のことを記してしましましたが・・・、
今回は唐手・佐久川移入したであろう、中国清朝軍の漢人部隊(緑営)の軍事教練の、15の形のうちの8番目の形である・・・。
15の形一覧表
「四十五戦」こと「セイウンチン」、「セイエンチン」、「セーウンチン」、そして「シーウンチン」などと呼称される形の事を、記していきます。
この形は漢字表記の「四十五」、すなわち「よんじゅうご」、または「よんじゅうごせん」などの日本語での呼び名が無かったことから、唐手・佐久川が移入した1804年前後のものが、そのまま沖縄で伝承されて行ったであろと推察されます。
さらに元の中国軍隊の軍事教練から、首里化、沖縄化へも、比較的に少ない形であったであろうと思います。
現在は左右四十五度に、四股立ちなどと呼ばれる立ち方を取って進行する、最初の三歩の動作は、じつはいわゆサンチン立ちで行われたはずです。
https://www.youtube.com/watch?v=hYiejX6nYLI 動画を参照してください。
さらに、この四十五度の角度に四股立ちで進んでいく方法も、まっすぐに前後に伸びる演武線に、自分の(横の)正中線を合わせる! っという日本武道(主に剣術)の様式を、踏襲しようとした試みもあった形跡もあります。
https://www.youtube.com/watch?v=2fO9HJdf5z4 動画を参照してください。
沖縄空手の形のみでは無く、中国拳法の套路にも存在したであろう、コンテクストの存在さえ理解なされば、この「四十五戦」の形の内容は、非常に明確に理解できます。
ですから、我が国際沖縄空手道・無想会の日本人弟子たちならば、その内容をすべて解明できるはずですし・・・。あるレベルから上の弟子たちには、出来て当たり前、出来なければダメだと思っています。
天才である「武士・松村」の手によって移入され、移入した本人の手で完全に首里化、沖縄化された、上記の「五十四歩(ごじゅうしほ)」の形。
唐手・佐久川によって沖縄に移入され、彼の弟子たちの手で、大まかに沖縄化されていたであろう後に、松村が完璧に首里化、沖縄化を果たした「八十一戦(パッサイ)」の形などを除けば・・・。
他の唐手・佐久川が移入した形は、その原型から余り改変されておらず、そのオリジナルな動きを推察することは、非常に容易いものです。
唐手・佐久川の後に、「武士・松村」こと松村宗昆が移入した形。「猫・新垣」こと新垣世璋が移入した3つの形は、軍事教練の形であり。
その後に、それらの軍事教練の形が、民間に流れて世俗の中国拳法になったものの四つの形を、東恩納寛量師と、上地完文師が移入させのでしょう。
本ブログの「四十五戦」は、上記のいずれでも無く・・・。
唐手・佐久川が1804年前後に移入し、彼の弟子たちが一、二世代かけて沖縄化させものが、細々と伝承されていたのだと思います。
0コメント