空手家冥利(首里手への、チャレンジ)

 前のブログで、「他の唐手・佐久川が移入した形は、その原型から余り改変されておらず、そのオリジナルな動きを推察することは、非常に容易いものです。」っと、記しました。

 形を構成している「構造・機能・様式・応用」の四つの要素と、形の文脈、いわゆるコンテクストの存在さえ理解できれば、誰でも可能です。

 これは佐久川が移入した原型を、比較的保っているいわゆる、「古流・那覇手」とわたくしが呼んでいる形の集団のことです。

 これらの形は唐手・佐久川から沖縄の武士たちに伝承されて、沖縄の心身文化の様式で変革された後に、四散したはずです。

 でも、その変革の度合いは、原型を読み解くことが可能範囲のものでしかありません。

 さらに、琉球王国が崩壊し、福建省の琉球館が廃されて、清朝軍の漢人部隊(緑営)の把門(アーナン、アーラン)、あるいは把門官(アーナンコー、アーナンクー)と呼ばれた、護衛官たちの15の軍事教練の形が、民間に流れた4つの形のことです。

 すなわち世俗中国拳法となっていたであろう、湖城家の蔡道場で修行されていたサンチン(三戦)、セイサン(十三歩)、サンセール―(三十六戦)、そしてスーパーリンペー(壱百零八歩)の四つです。

 これらの形を、唐手・佐久川の約百年後に東恩納寛量師と、上地完文師の二人が沖縄に移入させました。そして、唐手・佐久川の形に上書きしました。

 これらの四つの形は、上記の佐久川が学んだ軍事教練の形が、世俗拳法化して、やや変形・部分的欠落があるに過ぎず、形のコンテクストさえ理解できれば、その変形や欠落部分もすぐに埋めることが出来ます。

 極論になりますが・・・。これらの解明は、他の軍事教練が民間に流れ世俗拳法と化した中国拳法の套路でも、十分に可能です。

 ただ、わたくしが知る限り、中国拳法家の誰一人として、それに挑んでいません! それは、套路・形にある「コンテクストの存在認知」が無いからだと思っています。

 まあ、それ以前に套路に存在するであろう、「構造・機能・様式・応用」の四項目を、理解しなければならないのですが・・・。そんなの、誰でも出来ます。

 問題は、首里手の形です。

 唐手・佐久川から沖縄武士に伝えられて、一、二世代後、または三世代かけて変革

され、その後に首里手の始祖としても良い「武士・松村」こと、松村宗昆の手によって改良された形です。

 この変革され、最大・最高にグレードアップされた形は、まず、唐手・佐久川の50年ほど前に、清朝満人軍の満人八旗の将校(総官の位)であった、「公」っと思われる姓を持つ中国武官から学んだ、クーシャンクー(公総官)の形。

 それと同時代か・・・、その直後に移入されたであろう、清朝水師(海軍)の形と思われる、ナイファンチ(内帆船・南方拳)の形。

 

 そして唐手・佐久川が移入した、セイサン(十三歩)、パッサイ(八十一戦)の二つの形。そして佐久川の移入後に、重複して松村自身が移入させたとの口碑もある、ごじゅうしほ(五十四歩)の形です。

 すなわち公総官、内帆船・南方拳、十三歩、五十四歩、八十一戦の五つの形です。

 これに平安の形シリーズの元となった、江南の形が入る可能性もあります。

 ブッチャケて言いますが・・・。この五、六つの形を解明するには、そんじょそこらの知識では無理です。(江南は平安があるので、その原型をたどるのは比較的容易ですが・・・。)

 なぜなら漢・和・琉の三つ、すなわち中国、日本(本土)、沖縄の三つの文化における心身思想・操作が、混交されているからです。

 特に松村宗昆は、自らが日本の心身思想・操作の頂点にある(あるいは、世界的な頂点です!)、日本剣術を極めているがために・・・、なんら躊躇すること無く、大胆に中国王朝軍隊の軍事教練の形を、換骨奪胎しています。

 それもチャーンっと、正中線・演武線の認識を持って形を改良しており、すべての形が「先の先」を取っています。

 松村の手、首里手、沖縄手とも呼ばれる、世界に冠たる、

「武術として伝承された沖縄空手」

 の誕生です。

 その技量の素晴らしさとは、筆舌に尽くしがたいほどに見事です。まあ彼にとっては、そのような事柄は「お茶の子さいさい」であったのかもしれませんが・・・。

 浅才も顧みず、わたくし・新垣清は「松村の手」に、ガチンコで正面衝突をして、解明して行こうっと、この十年ほどの修行年月を費やしていますが・・・。

 跳ね飛ばされ、跳ね返されてばかりです。自分の才能の無さを、如実に思い知らされる毎日です。

 そして「ウーンッ! 松村、見事なり!」っと、唸り声をあげる日々です(悔しいけどね!)。

 松村の手を理解すれば、するほどに、松村宗昆とは「雲どころか、空そのもの以上に、天才だったのかもしれん?!」っとまで思うほどです。

 そのような天才の足跡を辿っていけるということは、わたくしは、自分の空手家冥利に尽きると思っています。