「ごじゅうしほ」と、「ウセーシ」は異なる形です。

 本ブログは、「ごじゅうしほ」、または「ウセーシ」と呼ばれる、「五十四歩」の形に関して記します。

 唐手・佐久川が移入した、清朝陸軍・漢人部隊(緑営)の軍事教練の15の形において、9番目の形です。九の六倍数で、9X6=54となります。15の形一覧表

 琉球王国時代に福建省にあった琉球館を、緑営の兵士たちが護衛していました。

 その護衛の兵士のことを、把門(アーナン・アーラン)、または把門官(アーナンコー・アーナンクー)と呼びました。この把門たちの軍事教練、すなわち徒手格闘術の体系立った15の形のすべてを、唐手・佐久川が琉球王国に1804年前後に移入させました。

 これが現代の空手と呼ばれる武道の、沖縄(琉球王国)における体系立った伝承の始めとしても、良いでしょう。

 それ以前の伝承では、1700年代の中頃に、冊封使の護衛として同行した公(の姓だと思います)という名の、満人八旗(清朝における、満州人の軍隊)の総官(尉官)の位にある軍人が伝えた、クーシャンクー、コウソウクン、観空などと呼ばれる形。

 それと同時期か、やや遅れて(1800年か?)移入された、清朝水師(海軍)の形であったであろう・・・。ナイファンチ(内帆船・南方拳の何れかの漢字か?)の形が、存在します。

 さて・・・、ごじゅうしほ・五十四歩の形は、唐手・佐久川が移入したのである! っと上記しましたが・・・。厳密には、それは間違いです。

 じつは、1804年前後に唐手・佐久川が移入させた形は、「五十四歩」と記して「ウーセイシ」っと呼称されて伝わりました。中国語の、沖縄における発音です。

 まあ、当時の琉球王国では、公文書は平仮名表記ですので、「おぅせいし」などと記されたはずです。

 他の唐手・佐久川が移入した形と同じく、福建省の琉球館で訓練されていた当時の名称(呼称)でしょう。

 その後に「武士・松村」こと、松村宗昆という名の沖縄武士で、剣の達人が中国に渡り、同じ琉球館で修行された軍事教練の「五十四歩」の形を移入させます。

 これが、現在の「ごじゅうしほ」と呼ばれる形のことです。

 ですから・・・、同じ「五十四歩」っと漢字表記され、福建省の琉球館で軍事教練の徒手格闘術として、訓練されていたものですが・・・。

 「ウーセイシ」っと、「ごじゅうしほ」は、少なくとも、移入された時期と、移入した人物は違いうものなのですよ。ですから、「ウーセイシ」っと、「ごじゅうしほ」は違う形なのです。

 しかし・・・、しかし、ですよ!

 これって、筆者・新垣清の独断による、推察でしょうが?!

 エビデンスっというか、証拠などがゼンゼン無い、与太話でしょう?!

 っという疑問、不満が、読者の方々から出てくるっと思います。

 当然です!

 書いている、わたくしでさえ、そう思いますもん・・・!