「ウーセイシ」の形を取り巻く時代的背景
「武士・松村」こと松村宗昆には、「27年の間、中国に渡って少林寺で修行した」という口碑が、アメリカにおける松村正統少林流には伝えられています。
まあ、琉球王国時代の中国・清朝には27年にも渡って滞在して、その後に沖縄に帰って国王の近習を務めるということは、事実上不可能でしょうから・・・。
この口碑を、筆者・新垣清は、「松村は、27歳の時に中国に渡った!」っとするのが正しのではないか?! っと、思っています。すると、渡清したのは1836年前後となるのでしょう!?
ちなみに、他の口碑などでは、松村は薩摩に二度、中国に二度渡ったとも、されています。
この口碑は、両方とも現地には琉球館が存在しますので・・・、可能ではあります。
いずれにしろ、現在の「五十四歩」、すなわち「ごじゅうしほ」っと呼ばれる空手の形は、中国清朝時代の福建省にあった琉球館で、清朝漢人部隊(緑営)の軍事教練の、15の形の9番目の形となります。15の形一覧表
この形を松村が移入させて、その後に沖縄の心身文化と、自らが極めた日本剣術の思想で、改革したものです。
その改革は、半端なものではありません。
もう究極のハイブリッドっというか・・・、換骨奪胎っというか・・・。「原型であった軍事教練の套路は、何処に行ったん?!」っと思えるほどの改良です。
すなわち、これ以上は、研ぎ澄ませることは不可能。これに、何モノも付け加えることは不必要。っという、完璧な形に仕上げています。
では1804年前後に唐手・佐久川が移入した、同じく清朝漢人部隊・緑営の軍事教練であった、「五十四歩」の形。すなわち、「ウーセイシ」の形はどうなってしまったのでしょうか?
以下、すこしハナシが飛びますが、ご了承のほどを・・・。
もうこのブログをお読みの読者には、佐久川の後で渡清した新垣世璋は、松村宗昆と同じく、軍事教練の形を移入した。
しかし、明治期になって琉球王国が崩壊し、琉球館が廃された後で形を移入した東恩納寛量師や上地完文師などの形は、それらの軍事教練の形が民間に流れ、世俗拳法の形となったものを移入したのだ。っとはご理解しているはずです。
その世俗拳法は、湖城家の中国名である「蔡」の字を冠して「蔡道場」、「蔡家拳法」と呼称しても良く、当時福建省で大流行した鶴拳の影響が入ったものであったはずです。
蔡家拳法には筆者が思うに、サンチン(三戦)、セイサン(十三歩)、サンセーリュ―(三十六戦)、そしてスーパーリンペー(壱百零八歩)の四つの形が、原型である軍事教練の形の流れとして残っていたはずです。
しかし、全ての中国拳法の套路と同じく、動物の動きや宗教的意味合いを取り入れており、さらに世俗に流れて時に、コンテキストの存在認識が失われてしまっていました。
そのために形の機能や構造に、部分的欠落や、誤解・曲解が見られます。ですから、形が意味を為しません(文責・新垣)。
それらの形は、沖縄に移入された後に、唐手・佐久川が移入した形を上書きするようなカタチで、普及します。
しかし、上書きされた唐手・佐久川が1804年前後に移入した形も、細々とながらシブトク伝承されたのです。
(首里)サンチン、(首里)セイサン、ローチン(三十六戦のこと)などの形です。
さらに上記の二名(東恩納師と上地師)が移入させた形は、僅か四つのために、他の十一の形は上書きを免れて、ほそぼそと伝承されていました。セイウンチンや、シソウチンなどの形です。
他にも、猫・新垣こと新垣世璋の移入したセイサン、ニセーチチン(雲手)、そしてソーチンなどもありますが・・・、これについては、もう煩雑になりすぎるので省略します。
では、本ブログの趣旨である「五十四歩」こと、「ウーセイシ」はどうだったのでしょうか?
この稿、続きます。
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