対象への純化と、対象の純化(その1)

 ここ5、6回のブログでは、「クーシャンクー」、「コウソウクン」、「観空」などと呼称される。

 1700年中頃に、満人八旗(清朝満人正規軍)のコウ(公、洪などの漢字でしょう)と呼ばれる将校(総官の位)が、琉球王国時代の沖縄に移入した形の、解明を再トライして、どうにか全体像が見えてきたらしい(?)っということを、記していました。

 でも、本来は、その50年後ほどの18004年前後に、「唐手・佐久川」が移入した。

 清朝漢人部隊(緑営)の、15の軍事教練の9番目の形である「五十四歩」こと、「ごじゅうしほ」の形に関して記していたのです。っが・・・、やや横道に逸れてしまいました。ごめんなさい!

 では図々しくも、横道に逸れたついでに、以下の文を記していきます。

 わたくしが中年になってからの再修業で、形の「構造・機能・様式・応用」などを明確に理解し、かつ形の中の「コンテクストの存在」まで認知していたはずなのに・・・、

 なぜ! 

 以前に「クーシャンクー」の形の完全解明を試みた時に、その解明を果たせなかったのか? そして、今回はその可能性が極めて高くなったのか? を自問してみました。

 それは形という「対象の純化」と、形という「対象に対する純化」における純化の度合いが、曲がりなりにも、高まったからなのだろう!? っと結論に達しています。

 以下の文章は、お前・新垣清の「大言壮語だ!」。または「上から目線だ!」っと、言われるかもしれませんが・・・。

 国際沖縄空手道・無想会の日本国内にいる弟子たちにとっては、これからの修行において非常に重要だと思いますので、批判覚悟で記していきます。

 わたくしが沖縄での修行時代においては、形は「使う」ものでした。形を「打つ」、形を「演じる」などという言葉を、聞いて覚えはありません。

 では、なぜ、「使う」っという言葉で表すのか?

 畢竟、それは、沖縄空手においては、形は戦いの道具。あるいは、戦うための道具である。それ以外のものでは、無い。っという認識があったからです。

 この想いにおいては、琉球王国時代の首里・沖縄の武士たちと、わたくしが学んだ当時(昭和40年代)の沖縄の空手修行者たちも、同じであったはずです。

 だから、形は「演じる!」のでは無い。形を「打つ!」のでは無い。 

 

 自分が形を「使う」っということは、道具としての形は、徹頭徹尾に「自分」のモノなのですし、「自分」のモノとしなければならない、ことなのです。

 すなわち、「武術として伝承された沖縄空手」っと、その「形」においては・・・、

 形は「使う!」

 もの、なのです。

 そこには、道具としての形を使う自分と、道具として使われる形との、二者の存在しかありません(ホントウは一者なのですが・・・、これは後記します)。

 すくなくとも自分の修行中、そして稽古中。

             形と、自分との関係においては、

            第三者の入る余地は無い。

 のです。

 因みに、第三者が入ってきたならば、または入ってこれるならば、それは自分と自分の形の間、あるいは関係に、隙(スキ)があるからなのです。

 さて、形を使うということに関しては、「琉球王国時代の首里・沖縄の武士たちと、わたくしが学んだ当時(昭和40年代)の沖縄の空手修行者たちも、同じ思いであったはずです。」っと上記しましたが・・・。

 一つだけ、決定的な違いがあります。以下、極論になりますが記します。

 それは彼ら、琉球王国時代の武士たちは、そのまま存在する形を学べば・・・、形を「使える!」ように為る。っということです。

 しかし、琉球王国が崩壊し・・・、近代化を迎えた日本・沖縄の社会で、空手を存続させる。

 または、空手を社会の中核へと進出させる目的によって、「武術として伝承された沖縄空手」っと、その「形」は、大きな変改を余儀なくされることとなります。

 すなわち、「武術」としての牙を抜き、安全で誰もが学べる「体育・体操」。あるいは、「スポーツ」、そして「リクレーション」っと、化しなければならなかったのです。

 ですから・・・、現代のわれわれが、「武術として伝承された沖縄空手の形」を学ぼうと志せば、あるいは「形を使おう!」っと決意したならば・・・。

 現代まで伝承されている、いわゆる「空手の形」では、不可能なのです。

 では、二十数年前のわたくしのように、「武術として伝承された沖縄空手の形」を「使う!」ようになれるまでに、修行したい。稽古したい。っと言う志を持った人間は、一体どうすれば良いのでしょうか?

 どうしなければ、為らないのでしょう?

 この主題、長くなるかもしれません、一応は完結するまでブログで続けます。