形の無限地獄

 前回のブログ、「対象への純化と、対象の純化(その1)」において、現在のわれわれの行っている空手の形と、琉球王国時代に伝承・修行・稽古されていた「武術としての沖縄空手の形」とは、まったく異なるものだと記しました。

 すなわち、われわれ現代の空手家が形を「使う!」っという目的で、修行・稽古を行おうと決意した時に・・・、

 体育・体操化、スポーツ化した形では、武術的な意味を為さないために、琉球王国時代の沖縄武士たちの修行の在り方とは、まったく違ってくると記してのです。

 われわれ現代の空手家は、「現存の空手の形と、琉球王国時代の形と同じである!」っと信じて修行してきました。

 しかし歴史を辿ってみれば明確になりますが・・・。その想いは間違いであり、完全に「似て非なるもの」であるのです。この想いは、一種の盲信っとしても、良いでしょう。しかし、妄信では無いはずです。

 その違い、あるいは違いの認識の欠陥が、現在の空手界における大きな矛盾の一つです。

 われわれ現代の空手家にとって厄介なことは、

現在の空手の形を持ってして、

武術を学びたいとした場合には、

それが、不可能なことであるということです。

 現在の空手の形は、「ストップ・アンド・ゴ―、ストップ・アンド・ゴ―」の繰り返しです。すなわち、足を出して居着き、その後に突きや蹴りの技を出す。その後に再び動き出し、その動きを止めて技を出す。っという塩梅です。

 こんな身体操作が、実際の戦いで使えるっと思うこと自体が間違いなのは、もう本ブログの読者はお判りのことだと思います。

 わたくしは、その事に気づいた二十数年前に、これは古伝の武術としての空手の形の動作を誤解・曲解して、行った動作の結果であろう!? っと思っていました。

 しかし・・・、

 それは、

 わたくしの、間違いでした。

 現在の空手の形は意図的に、「ストップ・アンド・ゴ―」の動作に生まれ変わった。あるいは、生まれ変わされた形なのです。

 そのために、現代空手の形を行う際には「ストップ・アンド・ゴ―」の動作が、正しいのです。

 しかし、この動作は実際の戦いにおいては、役に立ちません。

 さらに決定的なことは、われわれ現代の空手家には、

空手の形には、

「コンテクストが存在する!」っという認識

が皆無です。

 この事実は現代空手家だけでは無く、近代、すなわち明治以後の空手家すべてに、言えることです。

 あの「本部の猿」との異名がある実戦派の本部朝基師、「日本空手道の父」とさえ称される船越義珍師、そして他の日本本土、沖縄の空手家すべてに言えることです。

 すなわち、われわれ現代の空手家に残されていたのは・・・、

 形骸化した形と、その形骸化した形の、武術的な機能を取り戻す手段さえも失っていた、伝承体系なのです。

 では、一体どうすれば良いのか?

 この疑問ことそが、空手の形を理解する際に、無限地獄とも言えるパラドックスの始まりなのです。

国際沖縄空手道 無想会 International Okinawa Karate-do Muso-kai