対象への純化と、対象の純化(その2)

 前のブログ、対象への純化と、対象の純化(その1)で・・・、

「現代のわれわれが、「武術として伝承された沖縄空手の形」を学ぼうと志せば、あるいは「形を使おう!」っと決意したならば・・・。

 現代まで伝承されている、いわゆる「空手の形」では、不可能なのです。

 では、二十数年前のわたくしのように、「武術として伝承された沖縄空手の形」を「使う!」ようになれるまでに、修行したい。稽古したい。っと言う志を持った人間は、一体どうすれば良いのでしょうか?」

 っと問いました。答は簡単です。ってか、言葉で答えるのは非常に簡単なのです。

 現代空手の体育・体操化、スポーツ化、そしてエンターテイメント化された形を、武術的な元の姿に戻してしまえば良いのです。

 すなわち空手の形という対象を、武術的に純化してしまえば良いのです。

 そうでなければ、空手の形は踊り、体育・体操、スポーツ、エンターテイメント以外の、何物でもありません。

 現在行わている、いわゆる「形の分解」なるのものが、ゼンゼン意味を為さないのは、この体育・体操化、スポーツ化やエンターテイメント化した形が、武術的に意味あるものである! っという誤解・曲解を前提としてスタートしているからです。

 しかし空手を少し修行をすればすぐ分かることですが、現代の空手の形を修行して、その形に武術的な意味を持たすことは不可能です。

 その誤解・曲解の呪縛から自らの身を解き放つことは、それこそ空手の修行・稽古において、「己に会えば、己を殺し」っとまでの自己否定を要求されるものです。

 わたくしの拙い修行・稽古の経験からとして記しますが・・・。この「己に会えば、己を殺し」っという境地まで行ってしまうと、いわゆる常人では無くなります。

 下手をすれば・・・、本当に自分を殺しかねない局面まで迎えることにも、なりかねません。

 その時に生き残るか?、否かは?、運(まあ、恰好良く言えば天命でしょう)だけだと、個人的には思っています。

 少なくとも、個人の才覚などが関与する局面では、ありません!

 さらに、ここで明確にしますが、「自己を殺す」まで自分を追い込めなかった人間には、武術の修行というものを為すことは不可能です。

 すなわちブッチャケて言ってしまえば、自らが持つ自我を捨てて、学ぶ以外に道は無いのです。

 では、自我を捨て去った自分が学ぶべきことは、ナニか? が次に問われます。

 われわれが学ぶ武術としての空手とその形においては、古(いにしえ)から学ぶ以外に道はありません。

 もともとが、稽古本来の意味とは、「古(いにしえ)を稽(かむがえ)る」ことだとされています。

 私事になりますが・・・。お蔭さまで日本国内における国際沖縄空手道・無想会の普及活動も、活発に行われるようになってきています(感謝!)。

 先日、日本へ弊会の世界総本部道場の正指導員が派遣されたことが、一つの起爆剤になって欲しいと思っています。

 その人物を迎えるにあたって、日本の会員たちと最初の顔合わせの際の議事録に、「空手の歴史を学ぶこと」っとの意味のことが、明記されていた記憶があります。

 正直に記しますが、「オオッ~、皆、大人になったなぁ!」っというのが、その文章を読んで最初に思ったことです(気を悪くされたなら、失礼)。

 確かに、体育・体操化、スポーツ化、エンターテイメント化された空手も、現代社会においては必要です。

 しかし、その元である武術として伝承された空手と、その形を忘却してしまえば、西欧社会の心身思想・操作の価値観の上で流浪するモノ! としかなれないのではないか? っという非常な危機感をわたくし・新垣清は持っています。

 われわれ日本人は、幸運にも武道の本家本元という地位を持っています。そして武道の持つ精神性の高さとともに、武術という世界に卓越した心身思想・操作を、まだ辛うじて維持しています(または、再現できます)。

 ならば、その恵まれた歴史的位置をわれわれ現代の空手家が、如何に有効に使うのか?が、われわれに問われているのだと思います。

 そのために、わたくしは武術としての空手の形の純化という修行・稽古に、ガチンコで取り組み、幸いにも(ホントウに、こう言うものは運だけです)どうにか、こうにか伝承させ、さらに世間一般に発表できるまでにこぎ着けたというのが、いまの正直な思いです。

国際沖縄空手道 無想会 International Okinawa Karate-do Muso-kai