対象への純化と、対象の純化(その3)

 前ブログ「対象への純化と、対象の純化(その2)」 で現代空手の体育・体操化、スポーツ化、リクレーション化、エンターテイメント化された形を、武術的に理解しようと修行・稽古に励んでも、それは不可能である。

 なぜなら、武術とはかけ離れた、西洋の心身思想・操作で改変(武術的には改悪です!)されてしまった形では、どうしようも無いからです。

 上記の意見は、少し空手を修行した方々からは、どこからも異論は無いはずです。

 しかし、わたくしが再修業を志した20数年前は、そのような考えはありませんでした。

 

 当時学んでいた空手の形こそが・・・、少し大げさにいえば「神代の時代から変わる事無く、延々と伝えられたきたものだ!」っという、認識しかありませんでした。

 いまから思えば噴飯ものの考えですが、当時はそれが普通の考え、いわゆる常識だったのです。

 まあこれが・・・、歴史哲学者としても良いヘーゲルの言う、「アジア的停滞」の著明な例なのでしょう!?

 現在も多くの沖縄、日本本土、そして世界各国の空手家も、当時のわたくしと同じ思いで、いまも修行されているはずです(でも、それは完全に間違いです)。

 そのために私事になりますが・・・、わたくしの再修業の初期の段階においては、わたくは空手の形という対象へ何一つ疑問を持たず、自らの心身操作(すなわち業・技)の、武術的な「純化」のみを目指していました。

 ただ誠に幸いなことに(これも運です)、再修業の際に始めたのが、「ナイファンチ(内帆船、南方拳の漢字か?)の形」です。

 別に、深い理由はありません。

 わたくしの沖縄での修行時代に最初に学んだのが、このナイファンチの形ですし、徹底的に遣らされたのもこの形だったからです。

 正直に記しますが、首里手、沖縄手、すなわち空手において「ナイファンチに始まり、ナイファンチに終わる」とまで言われている形ではありますが・・・・。

 当時のわたくしは、そこまで深い意味を持って、ナイファンチの形を選んだ訳でないのです。

 ただ漫然と、この蟹の横歩きをも連想させるヘンチクリンな奇妙な形を、チャンと出来るようになれば・・・。一応、空手の修行をやっているのだ。っと言えるというのが、幼少の頃から聞かされていたからに過ぎないとも言えます。

 そして、現在の多くの空手修行と同じく(ゴメン)、自分が学んだナイファンチの形こそが、唯一絶対であると思っていました。

 ってか、別な動作や、様式のナイファンチが存在する。などっということは考えてもみなかったのです。

 ~ただ、これも後年気づくのですが・・・、幸いにもわたくしの学んだナイファンチの形は、肘撃ちの際の顔の位置や立ち方など、比較的に古伝のそれを伝えていたようで・・・、その点でもわたくしはラッキーでした~。

 

 ですから、武術としての形という対象への、「対象の純化」などという思いは、その時点では皆無なのです。

 自分が伝授された形こそが唯一、絶対の存在であり、自分の心身操作を武術的に純化させて、その形の中に挿入して行くことが出来れば、武術として伝承された沖縄空手を修行していることになる! すなわち「形を使う」っと言えるのだと、単純に考えていたのです。

 拙著「沖縄武道空手の極意」なるものが、現在4巻まで出版されていますが、その初期の頃の本には「沖縄空手の形への『対象の純化』」なる想いを見出すことは、困難なはずです(ってか、無いはずです)。

 ですから、ブログの題が示すようにわたくの再修業は「対象への純化と、対象の純化」っと、まず最初は自分の心身の、形という「対象への純化」から始まったと言えるでしょう。