「対象への純化」だけでは不十分なのだ!
ここしばらく、武術としての沖縄空手の形に対する「対象への純化」っと、「対象の純化」の事柄に関して記しています。
二十数年前のわたくしの再修業は、その初期において「対象への純化」のみを目的に稽古していたのだとも記しました。
すなわち自分が学んだ沖縄空手の形が、そして他の流会派の空手の形のすべてが、極論すれば「神代の時代から延々と変わること無く、伝承されてきたものである」ために、武術としての修行・稽古を行う上で、そのままを受け入れて、稽古してさえしていれば良いのだ!。っと思っていたのです。
まあ今になって思えば、噴飯ものの形認識ですが、当時はそれが空手家全員の想いでもあった! っとしても過言では無かったのです。
その「対象への純化」の稽古によって、わたくしは幸いにも武術としての沖縄空手の形では、いままで思われていたような腕や足を使ったり、腰を回す、あるいは腰を振るなどという動作は、あり得ないということに気づきました。
すべては胴体内の大きな筋肉、すなわち大・小腰筋、腸骨筋、後背筋、そして前鋸筋など・・・。それらに加えて、大腿筋膜張筋や他の筋(スジ)を使用するものである。
さらに大事なことは、「重力による自然落下」である! っとの確信を得ました。
これらの認識は、すべて従来思われていた空手の心身思想や操作とは、まったくと言って良いほどに異なるものです。
幸いにことにわたくしは、これらの「武術として伝承された沖縄空手の形」における、心身思想と操作の認識と業・技を、「ナイファンチの形」の修行・稽古で得ることが出来たのです。
っが・・・。
ナイファンチの形とは、そしてその形の修行とは、上記のエネルギーの創出を学ぶ形式立った存在、または様式であり、実際の戦いにおける技術などでは無い! という認識が、わたくしの思考の大部分を占めていたとしても過言でありません。
すなわちナイファンチの形を実際に使用するには、四方八方に敵がいて、その敵に対して腕で受けたり、足でいなしたりして戦うのだ。
映画や芝居の殺陣のようなものであるという認識しか、持ち合わせていませんでした。
ナイファンチの形では動きは横一直線なので、敵は左右に一人づつと、前方に一人の計三名ですが・・・。
これが他の形になれば、敵は四名、五名、そして十名などと、数が増えていくのだとも思っていました。
そしてその一方で、映画や芝居ならいざ知らず、「実際の戦いにおいては、そんなことは絶対に不可能だ!」との淡い認識もあり、結論つければ・・・「形は使えないものである!」っと思っていました。
いまから思えば・・・、自分は「一体ナニを考えて、空手をやっていたんだろう!?」 っと慚愧の想いに堪えません。
文字通り、「アジア的停滞」の極致のような有様です。
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