空手の形は、ハチャメチャなのか!?

 前回のブログ「「形への純化」だけを果たしても、意味は無い。」 からの続きです。

 五年の修行のアカツキにわたくし・新垣清は、浅才の身でありながら、どうにか・こうにか、「武術としての空手の形」が要求する、東洋の心身思想・操作に、自らの心身をもって理解し、操作することが出来ました。

 すなわち、拙い業(わざ)ではありますが、わたくしなりに、一応は武術としての沖縄空手の形という対象に対して、自らの「心身の純化」を果たすことができたのです。

 では、自分なりに頑張って一応の「心身の純化」を果たした後に、形を使えるようになったのか? っという疑問が出てきます。

 答は、「ゼンゼン、なりません!」でした。

 

 だって、元来が、形そのものが「使えるようには、創作されていないからです!」っと、思っていました。

 だからこそ、東洋の心身思想とその操作、闘いにおける人間の行動様式などを考慮して考えた場合に・・・。

 現代空手のみ為らず、明治以後に残っている空手の修行者の、どのような書物、動画を観ても、「空手の形を使っている人物」は、見つけ出すことが出来なかったのです。

 空手の形は、使えないのです!

 それを無理して使おうとしてしまうと、明治以後の全ての空手修行者や空手流会派が陥った、芝居や映画の殺陣のような陳腐なものに、なってしまうのです。

 さらに、空手とは、突きや蹴りのみの、打撃系格闘術である! っという先入観から抜け出すことが出来ないために、業・技そのものの解釈が、まったくトンチンカンなものと、なってしまっているのです。

 では具体的に何時ごろ、わたくしが、なぜ己の心身を武術的に「純化」させても、空手の形は使えないことに気づくことが出来たのか?

 その最初の出来事(じつは、この辺ウル憶え≒必死の修行中のことは、余り憶えていません。必死とは、そんなもんです)は、ナイファンチの形(いわゆる初段)に出てくる、肘当ての終わった後で、片方の腕を自分の胸の脇に引き、他の腕を自分の胸の前方に床に平行に一直線上に置くという動作だったと思います。

 その後に、横に向かって所謂下段払いをします。

 これって、一体なんの動作なのだろう? 

 っと、疑問に思ったのす。しかし当然のごとく、誰に聞いても、どんな書物や動画を観ても、満足する回答が得られませんでした。

 一般的な答えは「最初の動きは単なる構え、次の動きとは、相手が横から前蹴りなどの攻撃してきたものを、払い受け!」っというものです。

 いまから思えば、このような形の分解なるものは、芝居や映画の「殺陣」以外の何物でもありません。

 

 さらに、前方に向かって片方の腕はいわゆる中段受けを為し、他の一方は下段払いをするという、平安三段の最初にも出てくる動作があります。この動作にたいしても、「これは、一体ナニ?」っという思いがありました。

 答は・・・、相手の諸手突きを、片方は中段受けで、片方は下段払いで防御するのだ! っという「トンデモ回答」が大多数です。

 当時のわたくしのみならず、現在の国際沖縄空手道・無想会の弟子諸氏においても、このような業・技の解釈とは噴飯ものである! っと思われるでしょうが・・・。

 当時においては・・・、これが形の分解の著明な例であり、現在でもそれは続いているのです。

 「こんな受けなどは、使えるはずが無い!」

 

 それ以前に、まずこんなもので受けようなどと考える人間が、武術としての空手を修行しているはずが無い! っというのは、ナイファンチの修行で、心身の「純化」までは果たし終えていた、自分の中で確信としてもてました。

 心身操作を理解してくると、「諸手突き」なる動作は、エネルギーの完全放出を旨とする空手の心身操作からすれば、有り得ないとも理解できてはいたのです。

 

 当時は、東洋の心身文化が要求する心身操作が、自分には出来るのだ! っという想いが出るまでの修行を果たした後ですので・・・(妄想かもしれんけどね?)。

 こんな、漫画チックな「トンデモ回答」に満足するはずがありません。

 すなわち、人間の動作として有り得ない攻撃から、人間の動作として有り得ない防護法で自らの身を守る・・・っと言う動作を有する形という修行体系が、存在すること自体が、絶対に有り得ない!っと確信しました。

 ムリを承知で、分かりやすいようにカーレースで例えて言えば、「武術的に心身を純化する」ということは、F-1レーサーなみの心身能力の獲得を、自分に課すということです。

 でもそのF-1レーサーが、自らの心身能力を発揮するために乗り込むものが、幼稚園児が乗る三輪車であるということです。あのね・・・、ゴーカートでさえも、無いんですよ!(っと涙・・・)

 当時のわたくしには、空手の形が使えないのは、ショウガ無いけど・・・。この解釈は、イクラ何でもヒドイだろうが・・・!!! っという憤りの想いがしていました。

 まあ、まだ若かったし、異文化の土地で空手を修行・指導している。さらに一応、再修業で地獄を見たという、気負いもあったのでしょう(若さとは、良いものです)!

 そのために、東洋の心身文化である東洋武術(さらに東洋医学も?)は、ヘーゲルの言う「アジア的停滞」の最たるもの・・・。「カーゴ・カルト」の、最たるものである。

 さらに日本文化の特徴である、「秘すれば花」であるために、「イワシの頭」を秘して拝んだとしても・・・、ここまでヒドイことは有り得ないっと、流石の自分も思ってしまったのです。

 これはブッチャケて記しますが、総括すれば、イクラ何でも「われわれの先達(先祖)の、心身文化のレベルとは、この程度だったのか!?」っという憤りです。

 しかし、この沖縄空手において基本であり究極の形であった、ナイファンチ(初段)の形のみでは無く、他の形のいわゆる分解なる解釈は、すべての空手家、空手流会派において大同小異であったのです。

 これでは、形は「使える」、「使えない」どころのレベルの話しではありません。

この稿、続きます。