受けは意味を為さない
まず、近況報告から・・・。
昨晩の米国山岳時間の3月21日の木曜日に、国際沖縄空手道・無想会の世界総本部道場で、児童部の昇級審査が行われて、お蔭様で無事終了しました。
今日の金曜日には、成人部の昇級審査が行われる予定です。
これらが無事に終了すれば、5、6月の日本縦断セミナーへ向けて、突っ走る心算ですので、皆さまのご協力をお願いします。
日本縦断セミナーで、お会いしましょうね!
今冬は、自分の空手修行に関しては、雪深いユタ州で最後の最後に、風邪をひいてしまいましたが・・・。
首里手、沖縄手、そして空手の祖である、「武士・松村」こと、松村宗昆の「ごじゅうしほ(五十四歩)」っと、「クーシャンクー(公総菅)」の二つの重要形を、完全解明することが出来ました。
個人的感触として、しっかりと地面に、深く根を張ることが出来たな! っと思っています。
残るは、あと一つの形ですが・・・。これも、どうにか解明する心算です。
修行、あるのみです!
さて、前回のブログ、「対象の純化」への過程 の続きです。
わたくしが、「武術として伝承された沖縄空手の形」を、体育・体操、スポーツ化をする以前の、「武術としての空手の形の原型に『純化』する」と決意した時に、候補に挙がったのが三つの形です。
「ナイファンチ(内帆船、あるいは南方拳の漢字か?)」、「たいきょく(太極)」、そして「ピンアン(平安)」の形も三つ(まあ、平安は形シリーズだけど・・・)です。
しかし、太極という形は如何に復元しようとしても、元の形がそもそも存在しません。
そのために、自然と残った「ナイファンチ」と「平安」の二つの形を、併修しながら稽古を続けるカタチとなりました。
その際には、ノート十冊分ほどの記述が生まれましたが、すべて走り書きっというか、自分の困惑、疑問、あるいは回答などを殴り書きしたもので、それを後程、PCで整理するなどして、稽古を進めて行きました。
まず、 空手の形は、ハチャメチャなのか!? でも記したように、「こんな受けなどは、使えるはずが無い!」の検証から始めました。
修行中は夢中ですし、時間軸などの観念はまるでありません。そのために詳細を書くとこのブログで十年は掛かると思いますので、全て端折りますが・・・。
やはり、「こんな『受け』は、使えません!」っが結論でした。
その時に、わたくしが驚愕し、困惑したのは、上記の下段払いや、中段・下段の二つの同時の受けなど以外にも、ほとんど全ての形の中に存在する・・・・。いわゆる「受け」っと呼ばれる動作は、まったく意味を為さないという結論が出てきたことです。
しかし、その結論が出る以上に、わたくしの修行において、一つの大きな転化が訪れたのです。
それは、「なぜ、それらの『受け』が、意味を為さないのか!?」 っという疑問や確信が出るだけでは無く・・・。
その疑問や確信を生み出せる要素が、自分の中に育ってきているのを、感じられたということです。
どんなに、「ここで、この動作で『受けろ!』」っと言われても、「この場面では、絶対に出来っこ無い」っとの感触が、自分の中から生まれてきていたのです。
わたくしの中に、「受け」の動作の正否を決め得ることの出来る、行き会ったりバッタリの漫然とした感触などでは無く・・・。
ナニか確固とした法則のようなものが、芽生えてきているということを、ある時期から意識出来るようになりました。
さらにその確固とした法則は、「受けの動作」そのものの正否への判断と同時に、形の各場面における、すべての動作の正否への判断にまで、及んで行ったのです。
それまでは、「ナイファンチ」による自分の心身の武術的「純化」を果たす過程で、沖縄空手の形における「構造・機能・様式・応用」なるものが存在しているのは、朧げなながらも理解しつつある時期だったのですが・・・。
その四つの形の要素以上の、この「ナニモノか?」 が形には存在する。その「ナニモノか?」を理解すること無しには、形は無意味な存在である! っという確信にも似た想いが、生まれてきていたのです。
この稿、続きます。
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