「受けは意味を為さない」は、間違いだ。

 前回の形の中にある「確固とした法則」からの続きです。

 武術として伝承された沖縄空手の形には、統一理論としても良い「確固とした法則」が存在するのだ。っということが、漫然とながらも実感できてきました。

 っが!

 その「確固たる法則」なるものが、どうしても掴めません。

 もうそうなると、数稽古しか出来ませんから・・・。意味の解らない形の動作を、ともかく出来るだけ繰り返す毎日です。

 そしてある日、ナイファンチの形において最初の肘撃ち(これは、誰もが明確に『肘撃ち』と解できる動作です)の後に・・・。

 コブシを胸の横、他の腕を胸の前で一直線という動作の後で、一直線であった腕を、横に払い落とす動作を、やりました。もうナイファンチの形で、イヤになるほど繰り返した動作です。

 通常は、これは横からの相手が、自分に突きを出したり、蹴りを出したりしたので、自分が腕を振って、相手の攻撃を下へ払うことだとされています。

 でも・・・。これって、「一体どこから、この相手(敵)は出てくるの?」。「その前の自分がやっていた動作って、意味あるの?」 っと素朴な疑問が噴出です。

 さらに次の動作は、払った腕の反対側の手で突きが出ます。でも、その突きが相手に届きません。

 思い切り肩を出したり、腰を回したりすれば漸く届くかもしれませんが・・・、それでは、一体、ナンの為にナイファンチの稽古をしているのか?っとなり根源的に間違いです。

 しかし、ある日、その動作を出来るだけ早く、速く、疾くやってみました。

 すると、「アラ? 不思議!」、一瞬ですが、相手が見えたのです。

 それは、自分の胸の前で頭を抱えられ相手が、その後に、横に払われた姿です。

 最初の肘撃ちの動作は、誰が見ても肘撃ちそのものです。

 ならば・・・。その後の、拳が胸の横。片方の腕は胸の前で一直線っという動作とは・・・、肘撃ちの後で、相手の頭を抱えている動作ではないか!? っと気づいたのです。

 その後に、相手の頭を横下に払って、それに次なる技の正拳を叩きこむ。これなら、正拳も相手にドンピシャの位置で届きます。

 さらにこれって、自然な動きだし、エネルギーの放出も、相手と自分の間合いや、拍子などの相対関係も、理に適っているでしょう!?

 

 その後に、相手を引き釣り込むようにして、横に移動・・・。

 ここまでは、OKだと納得しました。

 でも、相手の攻撃を下段に払う、いわゆる「下段払いの受け」が払うのは正しいが・・。これは「受け」の動作では無く、相手(の身体≒頭部)を、「下段に払っている!」動作っとするのならば、これはゼンゼン意味が違ってきます。

 同じ「下段への、払いの動作」でもそれは受け技などでは無く、自分が肘撃ちの後で抱えていた相手の身体(頭部)を、次は下段に払っているということならば、完全に意味は通るのです。

 ですから、以前のブログで記した空手の形における、「受けは、意味は為さない」っという記述は、間違いです。

 正しくは、空手の形における

『受け技』と言われるものは、

受けの動作では無い!

っということなのです。

 これには、さすがのわたくしも、驚愕しました。

 だって、地球は平らだと思っていたのが、突然「地球は、球体なのだ!」っと、言われたようなものですって・・・。

 

 あるいは、「太陽や星は、地球の周りを回っているのでは無い!」。

 ホントウは「地球が、太陽の周りを回っているのだ!」と言われた、中世のヨーロッパ人のような有様でした。

 当時のカトリック教会が主張した、神の御業の元で、人間の住む地球が宇宙の中心となり、その周りを太陽や星が回っているとする天動説を・・・、。 

 後に教会から異端審理にもかけられたガリレオが、「ホントウは、地球が太陽の周りを回っているのです!」っと主張した、地動説のようなものです。

 すなわち極論すれば、ガリレオのように、「神をも恐れぬ仕業」をわたくしは、やってしまったのでは無いか? っという想いもありました。

 でも、武術として伝承された沖縄空手の形に存在する、「確固とした法則」の正体を垣間見た瞬間であるのも事実でした。

 まだ漫然とした「確固とした法則」ではあるが・・・、この法則を元にしてナイファンチの形のすべてが解明できるのでは?

 すなわち沖縄空手において基本であり、究極の形であるとされている「ナイファンチ」の形を、武術的に「純化」出来る可能性が見えてきたのです。

この稿続きます。