滔々たる海が如きの空手の歴史

 むかし、むかし、はるか昔・・・。確か、わたくしが高校時代のころに読んだ。これも確か・・・。

 バートランド・ラッセル卿の、「西欧の若者よ、あまり、歴史を学び過ぎなかれ」っという意味の言葉を、鮮烈に憶えています。

 まあ、この歳になってタダでさえ冴えない頭に、ボケの兆候が濃厚に表れ始めていますので・・・。この言葉が、果たしてラッセル卿の言葉であったのか? または、言葉がホントウにそのような言葉だったのか? も今となってはアヤフヤです。

 さらに「ラッセルのパラドックス(矛盾)」とさえ、有名な彼のことですから・・・。例え、わたくしが覚えていたような言葉であっても、そのまま額面通りに受け取る訳にはいかないのでしょう。

 ただ、当時高校生であったわたくしは、第二次世界大戦後において、アメリカという巨大な新興国に、文明の全てを牛耳られることになる、ヨーロッパ(西欧)のインテリ階級の若者が・・・。

 そのギリシャ・ローマ文明の歴史・哲学などに没頭するあまり、歴史の無いアメリカがそれを逆手にとって、進取の気質でドンドンと20世紀の文化、政治(含・軍事)の世界を文字通り手玉に取っていくことに対する、ラッセル卿の戒めと言うか、警告であっるのではないか!?。っと拙い頭で想っていました。

 そして、わたくしが、空手の歴史と言うものを深く研究し始めて、それを活字というカタチで世に問うた頃に、同じ想いに囚われたことがあります。

 すなわち、生半可に空手の歴史を知ったが故に・・・。ニッチもサッチも・、行かなくなってしまった時期があったのです。

 己の経験(のみ)からで、空手の技術を語る。あるいは、形を解釈する。などのことが・・・。厄介なことに、空手の歴史を知ったが故に、出来なくなってしまったのです。

 すなわち自分の乏しい経験や、あるいは都合の良い思い込みだけで、自らを納得させて、己を世に問うことが出来なくなってしまっていたのです。じつは、この方法が非常に楽なのですがね・・・。

 想うに・・・。わたくしが、競技空手を捨てる。すなわち、主催していた空手の大会を中止し、かつ選手を他の大会に送ることも止めてしまったのも、この歴史とガチンコで正面衝突してしまったからなのでしょう。

 わたくしが空手の修行や稽古と謳って己なりに必死で行い、生徒たちにも叱咤していたことは・・・・。空手の歴史において、近代のスポーツ化故にやっていることにしか過ぎないのだ! っと、真正面から突き付けられた時だとしても良いでしょう。

 これも、ウル憶えなのですが(だから、間違っていたらゴメン!)フランスの知性とまで称された、ポール・ヴァレリーに「歴史は地中海のようなものだ!」すなわち「歴史とは海である!」っという意味の有名な言葉があります。

 なお、同じフランス人のフェルナン・ブローデルの有名な歴史の本に、「地中海」っという題目のものがありますので・・・。案外わたくは、それとゴッチャにしてしまっているのかもしれませんが・・・、勝手に筆を進めて行きます。

 ヴァレリーは、さらに滔々たる大海と比べて、波が作る「泡沫」とは、歴史では無い!っと言っています(確か、そのような意味の言葉だったはずです)。

 そして

真の歴史とは、

この滔々たる大海を理解することだ! 

という意味の言葉も述べています。

 わたくしは浅才の身にも関わらず、空手において泡沫的な生き方、修行では無く、

空手という、

滔々たる大海に身をゆだねる生き方。

そのような、修行を遣って行こうと、ある時期から漫然とではありますが、決意したのでしょう(?)。

 しかし歴史とは厄介なもので、一人よがりができません。

 特に心身文化の一つである武術には「稽古」、すなわち「古(いにしえ)を稽(かんがえる)」っという厄介(?)なモノが存在するが故に・・・。

 「人生すべて、『進取の気質』よ!」などと能天気で嘯いていた、当時のわたくしとは、それこそ真逆な思想でもあります。

 これには、ホトホト困りました。

 この稿、続きます。

国際沖縄空手道 無想会 International Okinawa Karate-do Muso-kai