無想会空手とは何か? その十 空手は体系的に伝わった
さて本ブログは「無想会空手とは何か?」の、「その十」となります。
今回は空手の伝承の歴史における、わたくし・新垣清と、その主宰する国際沖縄空手道・無想会の「武術として伝承された沖縄空手」の歴史認識に関して記します。
従来から・・・、
琉球時代の沖縄の武術であった空手とは、異なる時代に、中国の異なる地域から、異なる流会派(門?)、そして異なる師匠から学んだものである。
さらに、中国から沖縄に来た武官や武人が単発的に伝えたものだ。
っとされていました。
わたくしも、一時期はそのように理解していました・・・。がっ、しかし・・・・!
いま・現在は、まるで違います。一部、すなわち渡琉武官の伝承は別にして、他の事柄は真逆というか、180度違う意見です。
さらに首里手、古流・那覇手、泊手などの違いも、従来思われていた差異とはまるで違うものだ! っと思っています。
まず誤解を恐れずに、結論から述べます。
空手の元のなった中国武術とは、中国清朝の軍隊の軍事教練です。その大部分は中国清朝軍漢人部隊(緑営と呼ばれました=着てたものが、緑色だったからね!)の軍事教練です。
では、その軍事教練はどこで行われていたのでしょうか?
答は、簡単です。
中国福建省にあった、琉球館を護衛していた、軍人たちが行っていた教練です。
その15あった軍事教練の形を、1800年初頭に首里の武士が公式に中国に渡ることが出来た時に、沖縄に移入しました。それまでは首里の武士では無く、久米の人間が琉球と清朝の渡航を独占していました。
その体系立った15の形をすべて移入した人物が、「唐手・佐久川」っと呼ばれた人間だと思います。まあ・・・、1800年初頭と記しましたが、1804年前後だと思います。
その十五の形は、沖縄武士に伝授されました。
「サンチン(三戦)」、「サイファー(九法)」、「セイサン(十三歩)」、「セーパイ(十八)」、「ニセーシ(にじゅうしほ、二十四歩)」、「ニセーチ(ウンス―≒雲手、二十七)」、「サンセール―(三十六)」、「セイウンチン(四十五戦)」、「ウーセイシ≒ごじゅうしほ(五十四歩)」、「リューシャン(六十三)」、「シソウチン(七十二戦)」、「パッサイ(八十一)」、「ソーチン(九十戦)」、「クルルンファ(九龍法=九十九法
)」、そして「スーパーリンペー(壱百零八歩」の十五です。
15の形一覧表
3、13、24以外の数字は、すべて9の倍数、すなわち9XN(Nは自然数である1,2,3など)です。それが12まであり、都合9X12の108まであります。
これらの形は、全て 清朝の正規軍である漢人部隊(緑営)の軍事教練なので、当然のごとく発音はすべて北京語、満官語などと呼ばれる、いわゆる公式な言葉、当時の中国公用語(標準語?)で呼称されました。
従来思われていたような、福建省の方言である閩(ビン)語などではありません。
まあ、福建人が公用語を聴いて、それを自分の方式で発音し・・・(すなわち、福建訛り)。かつ、それを当時の沖縄の武士が、自分の耳でそれを聴いて、自分が発音できる音で発音した(沖縄訛り)。っということで、究極の「伝言ゲーム」になっていたはずです。
言うなれば・・・。カナダのケベック州で使われる、フランス人が理解できないとされるフランス語(笑?)、みたいな有様だったかもしれませんね!(ケベックの方々、ゴメン!)。
でも都合の良いことに中国語、日本語には漢字表記が存在します。その漢字表記を一覧にしたのが上記の表です。まだ製作途中なのですが・・・大筋には間違いは無いです。
まことに、驚愕すべきことですが・・・。
1800年初頭に、伝わった形のすべてが残っています。まあ、中には一部だけのものもありますがね・・・。
この十五の形が、首里手、古流・那覇手、泊手の元となったものです。
しかし、驚くべきことに・・・。首里の武士たちは、この「唐手・佐久川」の移入した中国清朝軍事教練の形(套路?)を、「良し!」としませんでした。
なぜなら、首里の武士たちは、すでに日本武道・武術を習得していたからです。
その個人の武芸に秀でていた彼らの目から見て、中国の兵隊の集団で行う、軍事教練などは、到底自らの鍛錬に値するものだとは思えなかったはずです。
そのために、15の形の大部分を日本武術(主に剣術)の心身思想・操作で、改変します。いわゆる、換骨奪胎を行ったのです。
私見ですが・・・・、この改変、あるいは琉球化、沖縄化は「唐手・佐久川」による移入後すぐに、行われたのではないか? っと推測されます。
これが、首里手、古流・那覇手、泊手の始まりです(まあ、当時はそんな区別は無いけど・・・)。
そして「唐手・佐久川」から二、三世代後に、「武士・松村」と呼ばれる、松村宗昆という武術の天才が登場します。
この人物は剣の達人であり、今にも残るその文から見ても明らかですが、文武に長けた人間として、日本の武道史上でもトップの一人である! っとしても過言ではありません。
この「武士・松村」の武術が、「松村の手」であり、「首里手」、「沖縄手」、そして「空手」の祖であるとしても良いでしょう。
ですから厳密な意味での空手とは、この松村宗昆が変革した首里手のことです。
「唐手・佐久川」後に琉球化、沖縄化はされたが・・・、松村の手では変革されずに残ったのが、その他の手、あるいはわたくしが「古流・那覇手」と呼ぶ流れの形です。
この松村によって変革されずに残ったものは、散り散りバラバラになっていたはずです。それが、近代に入って再編成されました(この部分も煩雑になるので、どこかで記します)。
泊地方に移入された形も、上記の首里手、古流・那覇手とは一部が別の流れですが・・。それもまた、非常に体系立ったものです。これはもう、説明するのに本一冊分ほど掛かりますので、今回は省略です。ただわたくしは、泊手の体系も全て解いた心算です。
「武術として伝承された沖縄空手」とその形が、現在の体育・体操、スポーツ化されたものとは、完全に似て非なるものである! っとの理解が漸くすすんできましたが・・・。
実は空手の伝承の歴史においても、従来のそれとはまったく異なるものだ! っということです。
心身思想・操作も、歴史的な伝承も、すべて体系立って為されて、そして成されているのです。
ただ現在のところ、それを述べているのはわたくし・新垣清と、その主宰する国際沖縄空手道・無想会だけです。
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