無想会空手とは何か? 番外編 無想会に無いもの

 本ブログでは、「無想会空手とは何か?」っとして第十話まで記しました。

 今回は「無想会に無いのは何か」っということを記します。

 無想会に「無い」ものと記すと、「ナニを、言っているんだ!」。

 無想会空手と、その会員はいざ知らず・・・。

 その主宰者である新垣清は、金は「無い!」。女性にモテ「無い!」。知恵は「無い!」。そして、酒は止められ「無い!」と、その他色々っと・・・(涙)。

 「『ナイ、無い、尽くし』のオンパレードじゃないか!?」 

 っと叫び出す人も、出てくるかと思います。

 当然です!

 確かにわたくし自身でさえ、そう思いますもん(でも、何時もじゃ無くて、時々ね!)。

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 しかし本ブログで記すのは、わたくし個人では無く、武術として伝承された沖縄空手の再興を目指す、国際沖縄空手道・無想会の心身思想・操作、そして歴史認識の存在しないものなのです。

 まず、立ち方です。

 従来空手の代表的な立ち方の一つだと言われている、「猫足立ち」がありません。

 さらに新興・那覇手の代表的な立ち方である、「三戦立ち」もありません。

 「前屈立ち」、「後屈立ち」もあるか? と問われれば微妙です(長くなるので、説明は省略)。

 ブッチャケて言ってしまえば、「ナイファンチ立ち」以外の立ち方はありません。

 その他の立ち方はその変形であり、その変形の立ち方もナイファンチ立ちの理念から外れていれば、弊会の立ち方としては存在しません。膝が内側向く「猫足立ち」や「三戦立ち」などがその顕著な一例です。

 突きなどの動作の際に、腰を回しません。そして、腰を振りません。

 これは最大の力学的エネルギーを放出する際に、この二つのような心身操作では不可能だからです。突きなどの動作が、遅くなり、弱くなるだけです。

 業・技を出す際に、予備運動、予備動作をしません。

 チャンと抗重力筋の力で直立すること自体が、予備の動作だからです。

 

 移動や業・技を出す際に、地面や床を、蹴りません。

 なぜなら、重力落下に反するからです。

 形の中に、複数の対峙する相手が存在しません。

 なぜなら、形の中で対峙する相手は最初から最後まで一人だからです。

 ですから従来の形の解釈とは、まるで別な解釈となります。

 身体を、回転させません。

 なぜなら、片方に落ちて直線運動をする方が速く、威力があるからです。

 呼吸による身体操作をしません。

 所謂「努責作用」は、近年に中国の世俗拳法の操作を移入した時に、沖縄に移入されたものだからです。このような身体操作は日本本土の武道・武術にも、そして琉球王国時代の沖縄空手にも存在しません。

 身体を固めません。

 なぜなら、固めると武術としての必項である、己の身体の各部分を相互否定し、かつその後の相互浸透させることが不可能だからです。

 すり足で、歩きません。さらに、足で歩きません。

 すべて胴体内の、大・小腰筋、腸骨・腸腰筋などで足を操作します。

 他にも、体育・体操、スポーツ化のために変革された現代の空手。あるいは、琉球王国時代以後に、中国の世俗拳法が移入された際に渡ってきた身体操作との違いは、モロモロあります。

 しかし煩雑になるので、ここでは記しません。

 さらに言えば、従来の空手の伝承の歴史解釈とはまるで異なり、空手は体系立って移入されたものである! っとの主張を持っています。

 これらの事柄は、別にわたくしが、否定するために修行したのでは無く・・・・。武術として伝承されたナイファンチの形を徹底的に修行して、その心身思想・操作を完全解明した後に出てきたものです。

 すなわち、わたくしが「真」を求めて修行した結果の、産物にしか過ぎません。

 修行とは、森羅万象の一つ一つを吟味するのでは無く、森羅万象の中を貫くであろう、真理を理解することだと思っています。

 さらに言えば、その真理とは一体どこから生まれてきたのか? っということを問う。ある種・・・、壮絶さをも含むものだとも思っています。

 まあ、上記のように「ナイ、無い。尽くし」で、武才に乏しいわたくしなので、当然間違った解釈も起こり得るでしょうが・・・。

 国際沖縄空手道・無想会とは「武術として伝承された沖縄空手の再興」を目指しいるだけで、他の流会派の心身思想や操作を批判したり、ツベコベ言う権利も、主張もありません。

 「和して、同せず」っということだと思います。

 このような弊会の心身思想・操作、形、歴史認識に、ご興味を持たれた方は、セミナーに一度ご参加ください。