セイサン(十三歩)の形について

 弊会は琉球王国時代に、「武術として伝承された沖縄空手の再興」を謳っています。

 では、その武術としての空手とは?

 っと問われた場合に、それは「松村の手」である! と答えます。

 「武士・松村」こと松村宗昆の手が、「首里手」であり「沖縄手」であり、かつ「空手」の祖だからです。

 彼こそが、中国清王朝の軍隊の漢人部隊(緑営)の軍事教練(陸軍・海軍共に!?)の形(套路)を、日本武術(主に剣術)が卓越した心身思想・操作の持つ「正中線」、「演武線」などの理念で換骨奪胎して、沖縄独自の武術として完成させた人物だからです。

 その松村宗昆の形である「ナイファンチ(内帆船、あるいは南方拳の漢字?)」、「クーシャンクー(公総菅)」、「ごじゅうしほ(五十四歩)」、「パッサイ(八十一)」の四つの形。それにわたくしが松村の創作だと思っている、「チャンナン(江南)」の形を弊会は伝承しています。すべて首里手の形で、合計五つです。

 それに、泊手の「ローハイ(羅漢)」の形が入るので合計六つです。

 いま現在、日本の弟子たちには四つまで、伝承が終わっています。そして今回の日本縦断セミナーにおいては、「ごじゅうしほ(五十四歩)」を伝授する予定なので・・・。日本国内におての形の伝承においては、都合・五つとなります。

 さらに一年以内に、すでに完全解明を終えている、松村の「クーシャンクー(公総菅)」の形を伝授する予定ですので・・・、これで合計六つとなる予定で、現在の無想会の制定形の六つの形のすべてが、日本国内で修行されるはずです。

 ただ、あと一つ・・・、残った形が、あります。

 それは、「セイサン(十三歩)」の形です。

 「松村のセイサン」という、言い伝えがある形です。

 しかし、この形に対してはわたくしは、「解明する価値があるのか?」っと常々思っていました。

 なぜなら、「この形は、首里の心身思想に反する」っという気がしていたからです。

 じつは、わたくしの師匠筋にあたる人物は、「セイサンで鍛えた」っと言われていました。これは、自らの空手の基本的心身思想・操作を、「セイサンの形」によって育んだという意味です。

 他にも沖縄空手においては、「ナイファンチ」の形で鍛えたと言われる人物が居れば・・・。それとは別に、新興・那覇手の修行者ならば、「サンチン(三戦)」で鍛えたなどと言われる人物も存在します。それが、昔の空手修行者の鍛え方だったのです。

 わたくしの場合は、「ナイファンチの形」だったですし、中年になって再修業したのも「ナイファンチの形」です(非常に幸運でした!)。

 しかし、上記の師匠筋にあたる人物は、自らの流会派を立ち上げる際に「セイサンの形を外した」っと言われています。すなわち、自分が自らの流会派で伝授する形から、「セイサンの形」を除外したということです。

 これは一人だけでは無く、他の師匠筋にあたるもう一人の人物も、「セイサンの形を、自らの弟子たちには伝授しなかった」っという逸話も残っています。

 しかし安里安恒師は、確か新聞紙上で「実際の戦いならば、セイサンの形」っという意味の事柄を述べているはずです(この部分、書き飛ばしでアヤフヤなのでご確認くさだい。龍奇さん、これで合ってますかぁ~?。確認お願いします!)

 

 しかし、わたくし・新垣清個人の文責として明確にしますが・・・。セイサンの形に関して、安里師の意見とは異なり、

「これは、実戦では使えん!」

っと確信していました。

 わたくしが、自らが修行した、蟹の横歩きを連想させる「ナイファンチの形」が使えない! っというなら理解できます。そのために過去150年ほどに渡って、ナイファンチの形を武術的に使えた空手家は存在しないはずですから・・・。

 しかし、セイサンの形は通常の人間の歩行と同じく、前を向いて進んで行きます。そのセイサンの形を、なぜ「使えない!」っという感想を持ったのか?

 受けて、突くからです。これでは、「後の先」っとなってしまいます。そして、呼吸で、動作を操作するからです。さらに、静歩行で、膝を中に入れるからです。これらは個々の流会派において違いはありますが・・・。これらのいずれの動作も、首里手、沖縄手には存在し得ません。

 首里手、泊手を徹底的に修行した人間にはわかると思いますが、現在の巷で修行されているこのセイサンの形は、「琉球王国時代に行われた心身思想・操作とは異なるはずだ!」との感想が出てくるはずです。

 松村の手は「先の先」を取り、そして動歩行であり、かつ呼吸は自然であるのです。または、有るはずなのです。または、そうならなければ為らないはずなのです。

 その松村宗昆が、現存のセイサンのような形を、自らの手とするはずが無い! っと確信していました。以上、文責すべて、新垣清です。