これは一体ナンじゃらホイ?の「セイサン(十三歩)」の形が解けた
さていま・現在のわたくしの修行として、「武士・松村」こと松村宗昆が伝承したともされる、「セイサン・セイシャン(十三歩)」の完全解明を目指していると記しました。
一応、今回の日本縦断セミナーで指導する「ごじゅうしほ(五十四歩)」の完全解明は終わっていますし・・・。次に伝授する予定の、「クーシャンクー(公総菅)」の形の完全解明も終了しています。
ですから、「武士・松村」の形、すなわち「松村の手」で残っているのは、「セイサン・セイシャン(十三歩)」の形のみでした。
しかし・・・。
この形は首里手の心身思想・操作から、まるで真逆に位置する! っとしても良い形です。
まず、「中段で受けて、逆突き」などという、首里手には、そして実際の戦いには存在しない(例外有り)動作から形が始まります。
次に、多くの流会派では、静歩行で進みます(これは首里手と言われている流会派の、十三歩の形でもです)。
次に首里手と称している流会派でも、呼吸で身体を操作しています。
さらに左足始動、右足始動と、最初の一歩さえマチマチです。
そして、形の動作において、欠落してしまった! っと認識できる場面が多々あります。
さらに、1804年前後に「唐手・佐久川」が移入した清朝軍漢人部隊で軍事教練として指導された、15の形の一つである「セイサン・セイシャン(十三歩)」の形。
その形を「武士・松村」こと松村宗昆が、日本武術(剣術)の心身思想・操作で改変した「セイサン・セイシャン(十三歩)」の形。
それに新垣世璋が移入した、「セイサン・セイシャン(十三歩)」の形。
の、三つがあります。
他にも新興・那覇手の剛柔流、そして上地流の「セイサン・セイシャン(十三歩)」の形もありますが・・・。
それらは、清朝軍の軍事教練とは異なり、中国の世俗拳法(蔡拳法=湖城流としても良いでしょう)の形であり、かつ琉球王国が崩壊した後で修行・移入された形であり、そのために形の構成(それに付随する機能)が異なります。
そのために、琉球王国時代に伝承された「武術としての沖縄空手」の再興を謳う、国際沖縄空手道・無想会の本旨から外れますので、本ブログでは触れません。
このように「セイサン・セイシャン(十三歩)」の形を解明しようとすると、アレや、コレやっと・・・・。まるでナニか、ナンだか、マルで意味を為さないという塩梅になっています。
でもね・・・!
わたくし、このような現象には「ごじゅうしほ(五十四歩)」の、完全解明を試みた時に、慣れっこになってしまっています。
「ごじゅうしほ(五十四歩)」の形においては、右足前が初動、あるいは左足が・・・。などのレベルでは無く、立って形が始まるだけでは無く、片膝(折敷)で形が始まる流会派さえあります。
「あんた・・・!」
いくら何でも、立ってっと、座ってとは、ゼンゼン立場が違うでしょうが? せめてそこのところだけでも、チャンとしてくださいよ! っと一言いいたくなります。
酔拳、酔羅漢などの影響があるとされる(?、ウンなこと無いって!)、横にヨロヨロと動く、そして中には足を高く揚げる動作も・・・。前を向いて2ペア、前後に各一ペア、前と横を向て各一ペアなどっと、ここまで来ると「もうドウにでもしてよ!」っと呟きたくなるほどの、混乱が起こっています。
ですから空手の形は、ナニが、ナンだか、ダレも、もうヨウ分からん! っということには、ゼンゼン驚かなくなってしまっています。
その経験をいかして、琉球王国時代に武術として伝承された「セイサン・セイシャン(十三歩)」の完全解明を目指していました。
まあ・・・。
解けました!
これで国際沖縄空手道・無想会の、制定形の七つのすべが完全解明を終了し、弟子に伝授することが可能になりました。
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