「武士・松村」登場の背景

 「公総菅(クーシャンクー)」の形は、現代まで伝わる空手の形においては、その歴史的背景を考慮した場合に、最古の形であるとしても良いでしょう。

 1700年の中頃(1756年?)には、琉球王国時代の沖縄に渡来しているのですから・・・。

 1803年前後に、「唐手・佐久川」の手で移入されたであろう、清朝軍漢人部隊(緑営)の 15の軍事教練の徒手格闘術の形よりも、50年(47年)ほど・・・。15の形一覧表

 そして「武士・松村」こと、松村宗昆の誕生(1809年?)から53年、そして松村がその改変を出来たであろう壮年(1840-80?)から数えて、80-90年ほど経過しているのです。

 その間に首里の武士たちは、1700年中頃にコウ(公の漢字か?)と言う姓を持つ、清朝満人八旗の「総菅」の位を持つ人物によって、移入され可能性の高い中国徒手格闘術の形を、沖縄武士たちは自らの心身文化に沿って改変します。

 その武士たちの間においては、時に純粋な武術としてでは無く、「踊(おどり)」、いわゆる「舞(まい=メー)」として伝承させた人間もいたでしょう。

 っというか、当時の平時の社会においては、その可能性の方が非常に高いでしょう。

 後に冨名腰義珍(松濤)師の筆による、安里安恒(あさと・あんこう)師の新聞記事に載っている、空手の発祥は地方の舞方であるなどということは、この辺りの事情を言っているのだと、わたくし・新垣清は思っています。

 しかし、首里の武士たちが、当時の清朝の中国へ渡ることが可能になった1800年あたりから・・・。首里の武士たちに武術習得の気炎が上がり始めたと思います。

 それに加えて・・・。西欧列強によるアジアに侵攻による危機感も、徐々に高まってきているはずです。

 中国・清朝と英国の間で行われたアヘン戦争(1840年)が、その著名な例でしょう!? ちなみに、このアヘン戦争は松村宗昆が31歳前後の時に勃発しています。

 この首里武士たちの渡海・渡清と、西欧列強の圧力という二つが、琉球王国において素手の武術である、空手が勃興した直接的な理由だと思っています。

 そのために軍事教練として、徒手格闘術(空手)は勿論のこと、他の武術も国都であった首里に、1798年に新しく出来た国学(武士階級の最高学府)で(一時期にしろ)教導した可能性もあると、わたくし・新垣清は推察しています。

 すると80-90年の長い激動の時期に、この「公総菅(クーシャンクー)」の形は、琉球王国時代の沖縄全域に広まって行ったはずです(まあ、一部は「舞」になっていたはずですが・・・)。

 その広まっていた「公総菅(クーシャンクー)」の形を、「武士・松村」こと松村宗昆が、自らの学んだ日本武術(剣術)と・・・。

 彼の職務(近習という、特にいわば「(国王の)御付き武官」、または現在のアメリカ大統領を護衛する「シークレット・サービス」のようなものだったと思われます)による必要性から・・・。

 非常に効率の良い、武術として変革させたのでしょう。

この稿続きます。