鬼神の業・技
松村宗昆(まつむら・そうこん)は、「武士・松村」っと呼ばれていました。
琉球王国時代には、ひとかどの「武人」は数多く存在していましたが、この「武士・松村」の場合は首里の武士っと言うか、琉球王国時代の、沖縄武士の鑑っという意味の、尊称です。
一方で、泊手の中興の祖とされる松茂良興作(まつもら・こうさく)も、「武士・松茂良」っと呼ばれていました。
金城裕師によると、松村と松茂良の発音が似ているので、首里への対抗の意味で、泊の人間たちが、松茂良にも「武士」っという尊称で呼んだはずだ・・・。っと言いますが、当たらずとも遠からずの意見だと思っています。
以下、完全に私見です・・・。
わたくし・・・、松村の創作したであろう「ごじゅうしほ(五十四歩)」っと「公総菅(くーしゃんくー)」の形を完全に解明した心算です。他にも「八十一(パッサイ)」、「十三(セイシャン)」なども解明しました。
そして、いま現在、この人物を表す「武士」っという尊称だけでは、物足りないでは無いか?!とまで思っています。
すなわち、これは「『鬼神』の、業・技では無いか!!」 っとまで思ってしまっているのです。
特に非常に重厚な「ごじゅうしほ(五十四歩)」の形を詳細に検証していくと、「自家薬籠」っという言葉が適切なのです。
この人は、「正中線、演武線を、自由自在に使いこなしている!」っというか、ブッチャケて言えば、「好き勝手に、使っている!」っとまで思わずにはいられないのです。
この人(の形)、演武線から外れて立つんです!
ナゼかって?
なぜなら、形を使う時に、演武線上に立つためです。
通常っというか・・・。少なくともわたくしのように武才に乏しい人間は、自分の揃えた両足の真ん中に演武線を置きます。すなわち、自分の正中線を、演武線上に立たせるためです。
そして、これこそが武術としての空手の形の在り方であり、形を使う際に、基本となる概念・動きなのです。
そして、このままでは、わたくしのように、辛うじて演武線の認識はあるが・・・。
演武線を、まだ自由には使いこなせない状態です。あるいは、演武線に自分が使われている状態なのです。
現代の空手家で、必死で武術としての空手を修行した人間のレベルが、これです。
しかし・・・。しかし、ですよ・・・。
松村宗昆という人間は、このわたくしレベルの人間の認識をあざ笑うかの如く・・・。
縦横無尽に形の中にある演武線と、己の正中線を使ってしまっているのです。
この稿、続きます。
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